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八月十日の大風

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川筋の決壊、田地の流失など、大きな被害を出した七月の水害から間もない翌八月十日には、今度は風台風によって、先の水害の被害を大きく上回る被害をもたらした。台風の模様を『中村平左衛門日記』には、次のように記してある。
 
  昨夜九ツ時分(午前零時ごろ)より追々東風強く吹き起こり、七ツ前時分(午前四時ごろ)暫時風軽く、雨強
  く降りだし、間も無く南風はげしく相成り、六ツ時分(午前六時ごろ)までも誠に言語道断のこと也、六ツ
  半時分(午前七時ごろ)より漸々と軽く、四ツ時分(午前十時ごろ)までに吹き止み申し候
 
 と、午前四時ごろから、同六時ごろまでの二時間は、「言語道断」という強い風が吹き荒れたことを記してある。「長井手永大庄屋日記」にも、同じような台風の状況を記してあり、「降雨は格別の大雨にては御座無く候」と、風台風であったことを記してある。
 中村平左衛門(富野手永大庄屋、八月二十八日津田手永へ転役)は、風の鎮まり始めた午前八時ごろから、被害状況を視察のため、村内を巡回して、台風一過の村々の惨状を次のように記してある。
 
  朝五ツ時分(午前八時ごろ)風ようやく軽く相成り候に付、村内を回り怪我人などの儀吟味いたし、
  転(ころ)び家がおびただしきことにて候、利吉と申す者居家倒れ掛り、九死一生の体也、気つけの薬など
  与え、医者の手当てなど差図いたし候、村内を回り候にも倒木の上、倒家の上を踏み越え、踏み越え、打
  ち回り候こと、小路小路は全て塞がり候こと、誠に前代未聞のこと
 
 と、おびただしい家屋の倒壊、倒木など、足の踏み場も無いほどの惨状であったことがうかがえる。
 大風によって、大橋村にある御茶屋も倒壊、半壊の被害を出した。
      覚
  一表御門壱ケ所本転
  一垣廻り百拾間
  一御成御門壱ケ所
  一塀拾三間
  一塀上家吹離拾六間
  一御番宅壱軒半転
  一御茶屋屋根所々吹崩(「国作手永大庄屋日記」)


 大橋村では、十日夜八ツ(午前二時)過ぎごろ、大風によって倒壊した南横町川越の居家から出火した火事は、折からの大風で、大橋村の惣居家三七三軒の内、一三九軒を焼失した(『中村平左衛門日記』には二百六、七十軒ほどとある)。そのほか、御蔵・寺院・稲屋・土蔵などを焼失して、朝五ツ(午前八時)過ぎごろ鎮火した。建物のほか、田畠一四町八反余が火勢によって枯れ果て、皆損の被害を受けた(「国作手永大庄屋日記」)。
 大風による小倉藩の被害は、居家の倒壊六八六二軒、死傷者二四八人などを出した。