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七月八日・同十七日の風水害

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天保元年(一八三〇)には、七月八日・同十七日の二度の洪水によって、川筋土手、田地が被害を受けた。八日の風水害のもようを「国作手永大庄屋日記」には、
 
  七日夜九ツ(午前零時)過ぎごろより東風吹き出し、八日朝六ツ(午前六時)過ぎまでは風ばかりにて、大風
  と申す程の儀も御座無き候所、五ツ時分(午前八時ごろ)より風雨ともにはげしく、次第に風強く罷成り、
  九ツ半(午後一時)ごろまで、大風雨はなはだしく御座候、それより少し風雨軽く罷成り、追々八ツ時分
  (午後二時ごろ)より西風に罷成り、またまた風雨はげしく御座候、暮六ツ時分(午前六時ごろ)風雨ともに
  相止み申し候、この度の風、田畠ともに大分相障り申し候趣、別て早進みの稲には、格別相障り申し候様
  子相聞え、苦々敷存じ奉り候、なおまた、両川(今川・祓川)ともに洪水にて御座候
 
 と記されており、後日報告された被害書には、川筋土手に多くの被害を出している。
 八日の風水害から九日後の同十七日には、また風水害に見舞われた。「国作手永大庄屋日記」には、「十七日、風雨洪水」と簡明に記されているだけであるが、被害の書き上げによると、川筋の広範囲にわたって、土手決壊の被害を出している(第81図参照)。
 

第81図 土手復旧作業の図(「孝義旌表録略伝」)

 八日・十七日の両度の風水害で、田地は冠水、砂入りなどによる被害を受けた。その後、稲虫が発生してこの年の稲作は不作となった。『中村平左衛門日記』には、「湯川・葛原・津田・下長野は第一の不作にて、一昨子年(文政十一年)よりも不毛立なり」と、所によっては、文政十一年の台風による被害を上回ったと記してある(第107表参照)。
 天候不順による稲作の不作は、年貢の引き下げ要求となって、検見役に申し出るが、仲津・築城両郡はその場でなかなかまとまらず、仲津郡は検見役が帰りがけの呼野で、築城郡は引き取りの小倉へ大庄屋が出向いてようやく決まった。この年は、麦作が豊熟であったので、秋作の助けになった。
第107表 文政13年(天保元)7月8日・17日の風雨による被害
村名被 害 場 所8日の
被害
17日の
被害
被害合計
大橋御蔵上行司堺土手半崩 1ヵ所65間65間
同所下土手腹落 1ヵ所12 12 
大新地行司川筋土手半崩 2ヵ所120間58 160 
沖新地行事川筋土手半崩 1ヵ所52 20 72 
沖新地東の角土手腹落 1ヵ所26 14 40 
沖新地中土手半崩 1ヵ所7 7 
川嶋土手腹落1ヵ所16 54 70 
浜崎土手腹落1ヵ所34 34 
浜崎大野井道土手半崩 1ヵ所8 8 
国分塚田石垣腹落1ヵ所17 32 49 
矢富車田土手切 1ヵ所14 14 
上坂中そら石垣腹落 1ヵ所17 13 30 
大橋
本田32町6反程、新地14町8反程冠水47町4反
 居家本転1軒
国作居家半転1軒
竹並居家半転1軒
(「国作手永大庄屋日記」から)