嘉永三年は、六月の洪水、七月・八月の風水害と天候不順が原因で、田畠にも多大の被害を出した(第82図参照)。このため、稲の作柄は「当年数度天変これあり、格外の不作」(「国作手永大庄屋日記」)となった。同年の年貢引き高は、企救郡八一四九石余、田川郡一万三九六八石余、京都郡七五七六石余、仲津郡九七二九石余、築城郡五七五三石余、上毛郡四〇四二石余、御領分一六五一石余で、合計五万〇八七二石余の年貢引き高が生じ、藩の年貢収納高は四万八六二八石余となり、年貢収納率は約四九%に過ぎなかった(『豊前市史』上巻)。これは、稲作においては、文政十一年の風水害のときを上回る災害の年であった。
第82図 被害田見回りの図(「孝義旌表録略伝」豊津高校所蔵から)
稲作の凶作は、穀類の他所への持ち出しを厳しく禁止した。郡界、山野、海岸に接した村々では、昼夜取り締まりをして、穀類の流出を監視した。そして、持ち出しを見つけ、押さえ取った者には、その場で半高を褒賞として与えるなど、厳重な取り締まりをした。