嘉永六年(一八五三)五月十八日の洪水によって、川筋土手、池土手決壊の被害を出した後、同月二十三日の雨上がりの後晴天となり、六月、七月は雨無しの日が続き、八月二日に降雨のあるまで六八日間日照りが続いた(「国作手永大庄屋日記」)。この間、六月に一度、七月に一度夕立があっただけで、田畠はカラカラに乾燥して、白干し(土が乾燥して白くなること)・黒干の旱魃となった。『中村平左衛門日記』(抄出)には、「麦作不出来、秋作旱魃、御引米九千石、無利十ケ年賦拝借弐千四百石也、今年旱損未曽有の事也」とあり、麦作が不熟の上、秋作は旱魃による不作の年であった。しかし、田地により豊凶があったようで、「水のある坪は上作」の豊熟であり、新地など水の便の悪い田では、「旱損の坪多し」である。田地によって豊凶の差が甚だしく生じた年であった。灌漑用水路が整備されていれば豊作となる年であったが、治水の遅れが原因で起きた災害で、不作の年となった(第109表参照)。
被害 | 白 干 | 黒 干 |
村名 |
| 町 反 畝 | 町 反 畝 |
綾 野 | 3 8 3 | 4 0 0 |
下 原 | 2 3 0 | 3 1 0 |
呰 見
| 4 2 0 ( 1 6 0) | 5 1 7 ( 1 0 0) |
有 久
| 1 1 0 ( 1 6 0) | 9 5 ( 1 2 0) |
徳 政 | 0 | 1 5 2 |
国 分
| 2 4 0 5 ( 3 6 4) | 0 (0) |
国 作 | 2 4 2 | 2 4 7 |
惣 社 | 2 3 0 | 6 8 |
田 中 | 2 5 3 | 2 2 0 |