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農民の心情

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天保三年(一八三二)は、西日本を中心に甚大な被害を及ぼした享保飢饉から一〇〇年にあたっていた(第83図参照)。その前の年の天保二年(一八三一)に豊前国分寺より、「享保飢饉百回忌」を行う願書が出されているが(「国作手永大庄屋日記」天保二年二月三日条)、聞き入れられず、翌三年三月二十三日から二十五日にかけて、小倉の開善寺において、藩全体での施餓鬼法要が行われた。各郡より総代として大庄屋一人ずつ出すとともに、その他の寺院が法要を行うのは遠慮するようにとの指示が出されている(「国作手永大庄屋日記」天保二年二月二十四日条)。
 

第83図 平嶋手永餓死人供養墓
(行橋市津留法蔵院)

 享保飢饉百回忌が、天保三年にあたるのは、特段意味のあることではないが、小倉小笠原藩領だけで死者四万人を超えた飢饉から一〇〇年後、庶民たちは、どのような暮らしを営んでいたのであろうか。
 当時の農民の心情は、次に見る呰見村の直助という農民の行動に象徴されるであろう。
 
      御調子ニ付申し上げる口書覚
                                      呰見村
                                        直助
    去る冬私村方人別壱枚通取り集め、小倉表へ罷り出で候段、何分の儀やに付き、御調べ仰せ付けられ
    畏み奉り左ニ申上候
  一、私儀兼て手元甚だ難渋に御座候上、昨年の凶作に付き候ては、御年貢も余分引き足り申間敷様子に御
    座候に付き、壱枚通持参仕り御歎き申し上げ候はば、少しにても御年貢減り候様成る儀も御座有るべ
    くやと存じ奉り、村方人別田甫へ罷り出で居り候留守のもの共の分、妻子共へ借り受け御城下御出入
    先御屋敷へ持参仕り候処(略)
     卯三月
                         (「国作手永大庄屋日記」天保二年三月十六日の条)
 
 天保元年(一八三〇)は凶作であったため、年貢も足りないような村の状況を見て、役筋へ嘆願すれば年貢を減らしてくれると思い、「壱枚通」(嘆願書のことか)を取り集めて小倉城下へ出向いたのである。結局直助は農業以外のことで徘徊(はいかい)することを禁止され、身柄を親類・五人組に預けられる咎を受けるのである。この直助は田畑を一町余り耕作しており、この年の年貢は家財を売り払い、村役(庄屋・方頭)から不足分を補ってもらい、やっと納めている。さらに、同じ天保二年の田植え前に牛を売り払っていることも知られる(「国作手永大庄屋日記」天保三年五月十五日の条)。
 「百姓は農具さえもち、耕作を専らに仕り候えば、子々孫々までも長久に候、百姓御あわれみをもって此くの如く仰せ出だされ候、ここに国土安全万民快楽のもとひ也」(宮川満『太閤検地』第Ⅲ部所収近江水口加藤家文書)とは、有名な秀吉の刀狩り令の一文であるが、こういった農民の姿こそ、近世社会の成立過程で、支配する側によって作り上げられた「良き農民」像である(第84図参照)。しかし、前述の人手不足や、固定的な年貢賦課は、農村の生産性を根本的に弱くした。
 

第84図 貞実な農民像
写真は鐙畑村(現犀川町)又兵衛、善兵衛、吉兵衛、和平の年貢米俵詰め風景。
この4人は農業出精、早皆済(年貢を早く納めること)などにより、寛政7年(1795)に褒賞を受けた。
なお、絵は仲津郡大橋村出身の絵師柏木蜂渓の筆による。
「孝義旌表録略伝 仲津郡」(小笠原文庫87-2)より。