第83図 平嶋手永餓死人供養墓
(行橋市津留法蔵院)
享保飢饉百回忌が、天保三年にあたるのは、特段意味のあることではないが、小倉小笠原藩領だけで死者四万人を超えた飢饉から一〇〇年後、庶民たちは、どのような暮らしを営んでいたのであろうか。
当時の農民の心情は、次に見る呰見村の直助という農民の行動に象徴されるであろう。
御調子ニ付申し上げる口書覚
呰見村
直助
去る冬私村方人別壱枚通取り集め、小倉表へ罷り出で候段、何分の儀やに付き、御調べ仰せ付けられ
畏み奉り左ニ申上候
一、私儀兼て手元甚だ難渋に御座候上、昨年の凶作に付き候ては、御年貢も余分引き足り申間敷様子に御
座候に付き、壱枚通持参仕り御歎き申し上げ候はば、少しにても御年貢減り候様成る儀も御座有るべ
くやと存じ奉り、村方人別田甫へ罷り出で居り候留守のもの共の分、妻子共へ借り受け御城下御出入
先御屋敷へ持参仕り候処(略)
卯三月
(「国作手永大庄屋日記」天保二年三月十六日の条)
天保元年(一八三〇)は凶作であったため、年貢も足りないような村の状況を見て、役筋へ嘆願すれば年貢を減らしてくれると思い、「壱枚通」(嘆願書のことか)を取り集めて小倉城下へ出向いたのである。結局直助は農業以外のことで徘徊(はいかい)することを禁止され、身柄を親類・五人組に預けられる咎を受けるのである。この直助は田畑を一町余り耕作しており、この年の年貢は家財を売り払い、村役(庄屋・方頭)から不足分を補ってもらい、やっと納めている。さらに、同じ天保二年の田植え前に牛を売り払っていることも知られる(「国作手永大庄屋日記」天保三年五月十五日の条)。
「百姓は農具さえもち、耕作を専らに仕り候えば、子々孫々までも長久に候、百姓御あわれみをもって此くの如く仰せ出だされ候、ここに国土安全万民快楽のもとひ也」(宮川満『太閤検地』第Ⅲ部所収近江水口加藤家文書)とは、有名な秀吉の刀狩り令の一文であるが、こういった農民の姿こそ、近世社会の成立過程で、支配する側によって作り上げられた「良き農民」像である(第84図参照)。しかし、前述の人手不足や、固定的な年貢賦課は、農村の生産性を根本的に弱くした。
第84図 貞実な農民像
写真は鐙畑村(現犀川町)又兵衛、善兵衛、吉兵衛、和平の年貢米俵詰め風景。
この4人は農業出精、早皆済(年貢を早く納めること)などにより、寛政7年(1795)に褒賞を受けた。
なお、絵は仲津郡大橋村出身の絵師柏木蜂渓の筆による。
「孝義旌表録略伝 仲津郡」(小笠原文庫87-2)より。