前述したように、黒田氏によって、天正十五年(一五八七)に実施された検地は、「指出」といって、農民側が自ら土地の面積や収穫高などを記して上申する形のものであった。次いで当地方において検地を行った細川氏は、慶長六年(一六〇一)七月から惣検地を行い、領内の生産力を把握して、農村支配の基礎を固めた。
寛永九年(一六三二)に細川氏に代わって小倉に入った小笠原氏は、検地を行わず、細川氏の作成した検地帳をそのまま引き継いだ。
小笠原氏は後に、「水帳改」という形で検地帳の調整は行ったものの、基本的に細川氏の検地の成果が幕末まで年貢賦課の基礎となった。水帳改は、企救・京都・仲津・築城・上毛の各郡については宝永三年(一七〇六)に、田川郡については寛保二年(一七四二)に実施された。ただ、水帳が村の実勢とあまりにも不釣り合いである場合など、一村限りで水帳の作り直しをすることもあった。
しかし、ここで問題があった。江戸時代の年貢の負担方法は「村請制」といって、年貢は村全体で負担するというのが、原則である。また、基本的に水帳に記された村高(本高)は動くことはない。
すると、例えば水帳に登録された耕作人あるいはその子孫が断絶、出奔し、耕作をする者がいなくなった場合、年貢はどのように負担するのであろうか。藩としては、そのような村内部の事情にはおかまいなしに年貢を課してくるから、村請制の原則として、村に残された他の百姓が、その断絶、出奔した者の田畠を耕作するか、あるいは自らの田畠収入の内からその分の年貢を負担するしかないのである。それまでは五〇石の年貢を五〇人の耕作人で負担していたのに数十年間に二〇人の百姓が断絶したとしたら、残された三〇人の百姓の生活がどのようになるか、想像に難くないであろう。このように、江戸時代の農村において、人手が不足することは村の存立にもかかわる重大な問題であったのである。