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農村の人手不足

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文化・文政期(一八〇四―一八三〇)の仲津郡の農村は、人手不足に悩まされ、村の農業経営が覚束無(おぼつかな)くなるほどの状態であった。人手不足について、具体的な数値を用いて述べることは出来ないが、反別麦の貸し下げに関する大庄屋の願い出などに、その困窮の一端を見ることが出来る。
 反別麦とは、細川氏の治世のころから始まり、当初麦蒔畝一反あたり大麦二升、小麦一升ずつ上納したが、貞享四年(一六八七)に定額化し、備荒貯蓄として「土ニなる迄も其儘ニて有之」(「郡典私志」)べきものであった。ところが、文化期以降、人手不足のため農業経営に困難を来した村々の作喰料(農業の合間に口にする夫食)として、貸し下げるようになった。例えば、次のような例がある。
 
  元永手永竹田村、国作手永竹並村、平嶋手永草場村・柳井田村、右の村々は格別難儀村にて御座候に付き、
  居り合い立ち直りとして御試しに、去る未年(文化八年)より去る子年(文化十三年)迄六ケ年の間、作喰料
  として一ケ年大麦五拾五石・小麦拾五石ずつ年々下し置かれ、重畳有り難き仕合わせに存じ奉り候、(中
  略)然れども人不足の村柄に御座候に付き、急には作方丈夫に居り合い申さずに付き、(中略)去る丑年(文
  化十四年)より巳年(文政四年)迄五ケ年、猶又御下げ麦、これ迄の通り仰せ付けられ下し置かれ候様、去
  る丑年願い上げ奉り候ところ、去る丑年は先ず前年の通りの員数下し置かれ、(中略)甚だ恐れ多く存じ奉
  り候えども、この上ながら当寅年(文政元年)より午年(文政五年)まで五ケ年の間、猶又御下げ麦これ迄の
  御試しの通り、大麦五拾五石・小麦拾五石ずつ作喰料仰せ付けられ下し置かれ候はば、重畳有り難き仕合
  わせに存じ奉り候、(後略)
                                       平嶋寛左衛門
                                       国作甚左衛門
                                       進七左衛門
     文化十五年(一八一八)寅四月
       井上與三左衛門様
       佐藤桓兵衛様
                       (「国作手永大庄屋日記」 文化十五年四月二十三日の条)
 
 仲津郡の反別麦は、いくつかの村がグループを作り、そのグループに対して毎年決まった額の反別麦が貸し出されるのであるが、最も早く貸し下げを受けるのは文化四年(一八〇七)からである。いずれも人手不足をその理由にあげて、作喰料として使用することを目的としている。
 では、反別麦の願書で言うように、農村の人手不足が深刻であったなら、その原因は何であるのかが問題になる。天災、飢饉など単発的に農村へダメージを与えるものも考えられる。また、より長期的、継続的に農村を弱体化させた原因も考えられる。さらに、農民の出奔も、その一つであったかもしれない(もちろん、農民の出奔は農村が困窮している結果でもあると考えられるが)。