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農民の出奔

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文化・文政期における小倉藩領の手永別、年別の出奔数の分布を示したのが第110表である(盗みを働いて逃亡した者、乱心によって行方不明になった者は除いている)。まず、最も多く出奔人を出している手永は、仲津郡長井手永で八四人、次が田川郡伊田手永で六七人、その後に同郡添田手永の六四人、築城郡安武手永と田川郡猪膝手永の四七人と続いている。郡別では、田川郡が最も多く二八〇人、仲津郡が二二三人で、以後築城郡の一四八人、京都郡の一三七人、企救郡の一三四人、上毛郡の九二人と続く。郡ごとの人口に対する出奔数の比率を示したのが、第111表である。これを見ると、最も高い比率を示しているのは仲津郡で、約一・一九%である。逆に最も低いのは企救郡の〇・三五%で、出奔人を最も多く出した田川郡は、人口比では仲津郡より低く、約一・〇一%である。また、藩全体では約〇・七七%という数字を示している。
第110表 小倉藩領の手永別・年別の出奔数(単位:人)
 文化
2
3456
7
8910111213
14
文政
1
23456789101112天保
1
手永別
合計


国 作65223241314437
長 井211453133115111751058784
平 嶋311561312113129
元 永614262844239
節 丸17363312412134


久 保31335184256344
黒 田2122211922731
延 永12534332326
新 津563655121236


安 武152224512134647
椎 田11771516543
角 田6112112115
八 田44112111143




114421111341125
伊 田159152410156967
猪 膝139455114262447
金 田1611111016432
上 野81113012145
添 田1172141511118364




富 野2112211111114
片 野112271317
今 村312113171121
城 野721113121221
津 田111214423
小 森6711634138


友 枝5661511211142146
三毛門5921361365546
年別合計0916444011
7242193554479
2333242042427412772982921111014
文化2~6・8~12年、文政8・12年 長井手永大庄屋日記(九州大学蔵)
文化13年、文政1~7・9~11年、天保元年 国作手永大庄屋日記(行橋市教育委員会蔵)より作成

第111表 出奔者数の人口比
a.人口(文政11年)b.出奔数b/a×100(%)
企救38,746人134人0.35 
田川27,605 280 1.01 
京都14,253 137 0.96 
仲津18,699 223 1.19 
築城14,648 148 1.01 
上毛17,876 92 0.51 
全体131,827 1,014 0.77 
※小数点以下第3位四捨五入
「文政11年豊前国人数帳」(小笠原文庫)

 年別に見てみると、文化五年から十三年(一八〇八―一八一六)に至るまでと、文政五年から十年(一八二二―一八二七)に至るまでの、二つのピークを読み取ることが出来る。この中で、文政五―十年のものは、文政四年八月から同十一年一月まで行われた上毛郡赤熊村の宇島築港(およびその関連工事)が影響しているのかもしれない。また、出奔を誘発する要因には自然災害が考え得るが、文化―文政期のそれをまとめたのが第112表である。程度の差があるであろうから、一様には比較できないが、出奔数の多い年と天災の起きた年とは、大体において一致している。文化五―十三年のピークは、この間に起きている洪水、渇水、長雨による麦作の差し支えなどに端を発しているのではなかろうか。また、文政五―十年のピークは、先述したとおり、宇島築港に大きな原因があるのではとも思われるが、それに文政五年の洪水、文政六年の渇水、文政九年の麦の不作なども、これほどの高い数字を示すに至った要因ではないだろうか。また、文政九年の麦の不作に関連して、自然災害に加え、社会的な、次に見るような事情も絡んでいたようである。
第112表 文化・文政期の天災
○文化5年閏6~7月照続・雨乞
○同 6年7~8月同上
○同 8年7月14日洪水
○同 9年8月照続・雨乞
○同 11年5~6月同上
○同 12年5月同上
    6月 8日洪水
○同 14年4月18日同上
    7月 2日暴風雨
○文政2年5月21日暴風雨・洪水
    7~8月照続・雨乞
○同 4年7月同上
○同 5年5月18日大雨洪水
○同 6年5~7月照続・雨乞
○同 7年6~7月雨天打続
○同 9年4月同上→麦違作
○同 11年5月29日洪水(田川・仲津・京都三郡被害多)
    6月16日大雨洪水・被害甚大
    8月9・10日同上
    8月24日同上(特に領国東部被害甚大)
○同 12年7月照続・雨乞
○同 13年7月 8日大風
    7月16日洪水
第110表と同一史料及び『中村平左衛門日記』より作成

  御領中出来立て候米穀、御年貢之外は総て人民の食料ニこれ有り候故、如何様の凶年たり共百姓飢饉に及
  び候筈□(虫損)てこれ無き所、利勘の商人共値段安く買い取り、旅売りいたし候故、御領中米穀数無く、
  よって少々の凶年にも飢えに及び候の者もこれ有る哉の段、甚だもって痛々しき事に候、(中略)しかる
  に、利勘の商人は跡先を相弁えず、猥りに旅売りいたし候て、米穀数無く相成り候故、去春の如く少々の
  麦作不毛、上にても郡中飢饉の者これ有る段嘆き出し、上にも大いに御気遣い御座候て、旅米・北国米等
  御買い入れの御世話も御座候事に候、これに依り、麦不毛の上さへ右の通りに候へば、もし秋作凶年に候
  はば、如何様の義出来申すべき義も計り難き事に候(後略)
                                       杉生十右衛門
  亥正月九日
     佐藤桓兵衛殿
     延塚卯右衛門殿
                         (「国作手永大庄屋日記」文政十年一月十六日の条)
 つまり、「利勘の商人」たちが領内の米穀を安価で買い取り、領外へ持ち出すために「御領中米穀数無く」といった状態で、文政九年のような、少しの麦の不毛によっても飢えに至る者があると言うのである。史料中の「御年貢之外は総て人民の食料ニこれ有り候」という建前は別にして、当時の農村の困窮は、貨幣経済の浸透に、その原因の一つがあったことを示している。