人手不足などにより困窮した村々に対し、藩側に補助するだけの財力があれば問題ないのであるが、既に文化・文政期に至っては、小倉藩はそのような余裕のある財政状態ではなかったようである。文政十年(一八二七)田川郡で最初の国産仕組が開始され、赤池村に国産会所を設けて生蠟・鶏卵・楮など一三品目を指定して集荷するが、これとても特産物(主として扱った産物は生蠟と米穀)の販売により正銀を得ることで、大坂の銀主から借銀を容易にするのが目的であった。また、文政十一年(一八二八)藩は財政を健全なものとする良い手段があれば上申するように各郡へ申し付けたが、仲津郡大庄屋中が考え出したのは、極難・鰥寡孤独(かんかこどく)の者を除いて、一軒に付き、一日一文ずつ上納させるというものであった。生活が困窮している者には、草履、草鞋(わらじ)を作らせ、地域によっては産物を売り払わせてでも上納させるというものである。そのようにすれば、仲津郡だけで一カ月一一七貫七二〇文、一二カ月で一四一二貫六四〇文は上納できる、というのである(「国作手永大庄屋日記」文政十一年一月二十三日の条)。さすがにこの案は実施されるまでに至らなかったようであるが、当時の藩財政の逼迫ぶりがよく分かる。