ただ、人手不足などにより、その維持すら難しくなった農村を、そのまま放置していれば、藩の存立にもかかわるので、なにがしかの支援策を考えなければならない。備荒貯蓄である反別麦を貸し下げることもその一つであるが、農業を営むために必要な経費について無尽を組むことも行った。例えば、文政六年(一八二三)に藩と郡土蔵からそれぞれ二〇貫、一郡に付き二〇貫、六郡で一二〇貫、合計一六〇貫の無尽を設けた。これは根付料(田植えに必要な経費)に用いることを主眼に設けられたもので、その仕法は①毎春の根付料、その他やむを得ない入用があった際に評議を行い貸付高を定める、②借用にあたっては保証人をたて、もし返済できない場合は、その保証人が代わって返済にあたることはもちろん、その郡、その村で弁済にあたること。また徳政令のような触れが出たとしても、この無尽の借銀は返済しなくてはならない、③この無尽は六郡筋奉行中が取り仕切り、実際の銀子の出入りなどの事務には大庄屋二人が年番で当たる、④利息は一月から十二月まで一年間貸し付けた場合が一割五歩(一五%)とし、一年間に満たない場合は月一歩五朱(一・五%)の利息とする、⑤貸し付けるかどうかの判断は、六郡筋奉行と年番の大庄屋二人が話し合いで決めること。ただし一〇貫目以上のものについては、六郡筋奉行・大庄屋全員の話し合いで決めること、⑥秋口から、この無尽を利用する心組みは持たないこと、⑦貸し付けた銀子は、毎年十二月十五日に返済を済ませること、⑧藩および郡土蔵は、財政が苦しい中から出資したのであるから、もし財政的に非常な事態となったなら、六郡一統でその穴埋めをすること、⑨この無尽に出資した徳人(徳の高い者という意味が転じて富裕者のことを指す)の家が後年に至り衰退した場合は、この無尽の銀子を使って救う、といったものであった(「勢島文書」八五)。仕法中の⑨は、無尽を創設するにあたり、徳人に対して「不時の難渋の儀これ有り候節は取り救」(同前史料)ということを言って出資を促していることと関連している。出資を促された徳人が、本当にそのような「甘い言葉」を信じたかどうかは別として、いずれにしても、この無尽はかなりの部分を徳人に依存したものであった。また、別の無尽の例としては「御根付料仕組高米三千石の無尽掛米(略)是は高三千石にて弐割無尽なり(略)尤も一口分六百石にて企救・仲津両郡にて組み合わせ、企救三百五拾石、仲津弐百五拾石なり」(『中村平左衛門日記』第二巻四五二ページ)というものもある。
こういった無尽の中から捻出された根付料は、実際にどのように使われたのであろうか。例えば、文政四年(一八二一)一月に仲津郡大庄屋中が仲津郡奉行、同郡代官へあてた根付料の拝借願を見ると「(略)毎春相求候牛も安牛ばかり買い込み候に付き、其の歳限り用立たざる様罷り成り候、これに依り、年々見限り仕り、仕替え申さずては御作方も罷り成り申さず(略)」(「国作手永大庄屋日記」文政四年二月九日の条)とあり、牛代として拝借した根付料であるが、安い牛ばかり買い込むために、その年だけにしか使えないものばかりであるというのである。また、同じく文政四年二月二十三日に仲津郡奉行が大庄屋中にあてた書状には「(根付料が今日、明日中にも渡せるから)手永々々他借の分かり返し申され、新借致さず様」(同前二月二十四日の条)とあり、根付料の中から手永の借金を返済することも行っていたようである。また、文化十年(一八一三)の長井手永の根付料は前年の文化九年に「越年拝借」として村々へ貸し渡ししていることから(「長井手永大庄屋日記」文化十年二月二十一日の条)、根付料は農民の生活全般を支援するために用いられた。