根付料のほかに、困窮した村々を救済する方法の一つとして、「下ゲ米」と称して、藩庫から米を分け与えることを行ったようである。仲津郡では寛政五年(一七九三)から幕末に至るまで、毎年八〇〇石の下ゲ米を受け続けたようである。仲津郡の村々が、八〇〇石もの下ゲ米を受けなければならなかったのは、次のような事情があった。「(前略)当御郡(仲津郡のこと)の義は、前々より莫大の無土弁御座候上、地免不相応の村方御座候て、自然と困窮に及び、上納米年々仕詰め不足出来仕まつり(中略)寛政五丑年、右無土畝高物成取り調べ候所、田畑弐百六拾四町余り、この物成千六百八拾三石余りに相成り候間、右の内千弐百石だけ御下米御願申し上げ候所、年々八百石ずつ御下ゲ米下し置かれ来り候得共(後略)」(「慶応四年御下ゲ米八百石御願継書類写」の内「口上覚」「勢島文書」一一一)。これは、仲津郡の大庄屋五人が、仲津郡奉行にあてた書状の一部である。仲津郡には「無土畝高」つまり水帳に登録されてはいるが実際には耕作されていない田畠が「弐百六拾四町余り」あり、その分の年貢が「千六百八拾三石余り」(「千二百石」と記したものもある)あるというのである。また、その上に「地免」つまり年貢率が不相応に高く設定されている村があって、困窮に及んでいるという。「畝不足弐百六拾町余」とは水帳に登録された田畠面積と実際に耕作されている田畠の差が二六〇町余、ということである。仲津郡の本田畠は三一六八町余であるから約八・二パーセントの田畠が耕作されずにあることになる。そしてこの分の年貢が一六〇〇石余であることから、寛政年間(一七八九―一八〇一)に下げ米一二〇〇石を願い出たが、評議の上、八〇〇石に減額されて下されるようになった、というのである。