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藩の農村政策

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下ゲ米の願書にあるように、寛政期において既に、農村内の余り地は問題となっていた。その理由は、必ずしも明らかではないが、元文年間(一七三六―四一)に年貢徴収法の転換がなされたことも一つの原因であると言われている。元文年間、田川郡において「惣定免」という方法で年貢の取り立てが行われた。風・水・干害などで、稲の収穫量が大幅に減少しそうな村は、検見を受けて、年貢を減免してもらうのであるが、「双(ならし)定免」は検見を廃止して、郡内で補充しあって、年貢を負担する方法であった。つまり、不作であった村の年貢未進分を、余裕のある村から余分に取り立てることで補充し、郡単位で見れば定量の年貢を取り立てることが出来る仕組みである。この年貢取り立ての方法は、藩にとっては好都合であったが、村々にとって見れば、余裕のある村に過重の負担がかかり、結果として、人手の足りない村を増加させたと言われている。
 疲弊した村を立て直し、人手不足を解消しようとした藩は、寛政年間に「御建替仕法」を施行した。これは、本百姓を保護し、奉公人を確保するとともに、無高百姓・非農業民を把握することなどを通して、実質的な年貢負担者を開発しようという試みであった(『田川市史』上巻)。また、家柄などの慣習にとらわれず、耕作高の多い者を、村の宮座の上席に置くように命じているのも、寛政年間のことである(『福岡県史資料』第四輯)。こういった政策が、どれほどの効果を生み出したのか明らかではないが、文化・文政期(一八〇四―三〇)には、農村の人手不足が、より一層深刻になっていると思われることから、根本的な農村の体質を改善するまでは至らなかったものと考えられる。