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平野屋の調達講

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小倉藩は、延宝六年(一六七八)六月に、藩領内で通用する紙幣(「藩札」と言う。延宝期に発行されたので「延宝札」と呼ばれた)を発行したが(通用範囲は藩領内に限ったわけではなく、豊後・筑前・長門などでも使用されていた)、この藩札は宝永四年(一七〇七)に幕府の使用禁止令によって発行をやめた。その後、享保十五年(一七三〇)に幕府から藩札を使用することについての解禁令が出て、その年から小倉藩でも再び藩札が発行されることとなった。
 しかし、文化・文政期に本格化する農村の荒廃などの影響を受け、藩札の相場は下がり続け、藩札一匁の相場は文政初年(一八一八)に六〇文、文政十年(一八二七)五三文、同十一年(一八二八)四〇文、同十二年(一八二九)二八文六分、天保二年(一八三一)一八文、そして同三年(一八三二)には一五文にまで下落していった(永尾正剛「小倉藩の貨幣事情」北九州歴史博物館『研究紀要2』)。
 

第85図 築城郡椎田村
岩田屋札

 ところで、江戸時代の初期においては、小倉藩に限らず各藩は、年貢として領内から徴収した米や、各種の産物を大坂へ廻送して、蔵屋敷に詰めている藩の役人に販売を担当させた。しかし、十七世紀の後半代からその販売を大坂の商人に請け負わせるようになった。販売を請け負った商人を蔵元と言い、売却代金の収納を請け負った商人を掛屋と言った。
 小倉藩の蔵元、掛屋を延享期(一七四四―四八)や安永期(一七七二―八一)に務めていた大坂商人に平野屋という商家があった。平野屋は大坂今橋一丁目に店を構え、幕府が鋳造した貨幣の引替所を務めるなどしていた。小倉藩と平野屋との関係は、蔵元、掛屋を務めていたことが、そのきっかけであると想像されるが、天保元年(一八三〇)その平野屋が講親となり、「調達講」を創設することが小倉藩領の村々へ達せられた。
 調達講を設けることについての第一報が国作手永大庄屋の元へ届いたのは、天保元年閏三月二十五日であったが、その内容は、小倉藩領の六郡(企救・田川・京都・仲津・築城・上毛)で二〇口、一口を五貫目として掛銀を集めるもので、今回の一回限りの掛け切りであった(「国作手永大庄屋日記」文政十三年閏三月二十五日の条)。また、この講の催し方などは次のようなものであった。
 
  一、小倉において春・秋、講御催しの節、春・秋共に酒飯御差し出し御座候の事
     右入用銀は大坂講方より弁え銀下しに成り候事
  一、右酒飯出し候上に銀三両宛、人別へ大坂より出し候事
  一、右講御取り結び相整い候節、人別に銀弐枚宛御会釈これ有る事
     此銀も大坂より取り計らいの事
  一、小倉において右講高御郡町にて御整えの事
  一、講会ふり鬮(くじ)は小倉において取り計らいの事
     右入用道具類并びにふり鬮仕様等の義は、大坂より仕立て廻し候事
  一、京・大坂・小倉共に右講銀は大坂表において積み立て置きに相成り、諸向き御融通に御備えの事
     右に付き餘時の御用には御遣いこれ無き事
  一、京・大坂講会諸入用并元利済み入り共に大坂より取り計らいの事、三都講懸銀は都て大坂に取り集め
    積み立て候事
  右の通り大坂より申し来たり候書付に御座候、以上
    寅三月
                       (「国作手永大庄屋日記」文政十三年閏三月二十五日の条)
 
 つまり①春と秋に調達講の集まり(講会)を催す際は、酒・飯を出す。この費用は大坂の講親(平野屋)が負担する、②酒・飯の他に銀(金)三両ずつを大坂より人別へ与える、③この講が取り結ばれた際には会釈料(あいさつ料)として銀二枚ずつを人別へ与える、④この講の掛銀を小倉藩領の郡方・町方において集める、⑤講会の鬮(くじ)引きは小倉で行う。必要な道具、鬮引きの方法などは大坂が用意したものを使う、⑥京都・大坂・小倉のいずれも掛銀も、大坂において積み立てておいて、各方面の出費に融通するための備えとしておく。他の目的のためには使用しない、⑦京都・大坂の講会に必要な費用、元銀・利銀の出納は大坂が取り計らう。三都(京都・大坂・小倉)の掛銀はすべて大坂に集め積みたてて置く、といった内容のものであった。第三条までは、調達講への加入を勧誘する「甘い汁」のつもりであろうか。その他の条文を見る限り、小倉藩領からだけではなく、京都・大坂でも掛銀を取り集めることを予定している。また第六条では、京都・大坂・小倉で取り集めた掛銀を大坂において積み立てておき、「諸向き御融通に御備え」ることを目的としているが、調達講に関するその他の記事を見ても一応「藩財政への融通」を目的として掲げている。
 実際に調達講の掛銀がどのように使用されたかは後に述べるとして、郡の大小、米の生産量の多少にかかわらず、徳人(富裕者)がいる郡には、三口も四口も加入させられることを知った仲津郡筋奉行大村藤兵衛は、仲津郡には元来徳人がおらず、しかも現在ある借財の返済も埒(らち)が明かないことを奉行所へ申し出た。これに対し奉行所は、「その儀は委細承知の儀にてこれ有り候え共、一口五貫目の分は郡辻にて掛銀致すべく」と、一口は郡の会計より出銀するようにとの回答で、仲津郡はその他もう一口の、合わせて二口加入するようにとのことであった。大村藤兵衛は、国作手永大庄屋に対し、この調達講は六郡全体で行うものであるから、仲津郡ばかりが断るわけにもいかない。他の一口については、長井手永子供役長井健右衛門と節丸手永子供役節丸長左衛門の両人で受け持つか、または大橋町の徳人二人で受け持たせるのが良いのではないだろうか、と伝えている(「国作手永大庄屋日記」文政十三年閏三月二十五日の条)