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調達講仕法

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調達講は、全部で二〇口、一口を五貫目として掛銀を集めるもので、一〇口を一組としたものであった。毎年三月、九月に小倉において鬮(くじ)引きを行い、一〇年間の間に二〇回の鬮引きを行って、その当たった者に元銀に利銀を添えて返済するものであった。具体的な仕法は、一組(一〇口)分を例にとってみると、第一回の講会の際に鬮に当たった者は、元銀二貫五〇〇目と利銀一〇〇目の返済を受ける。半年後の第二回の講会で鬮に当たった者は、元銀二貫五〇〇目と利銀二〇〇目の返済を受ける。このように、鬮に当たった者は、二貫五〇〇目の一定額の元銀と一〇〇目から始まって、回ごとに一〇〇目ずつ上乗せした利銀を受け取るのである。そして、一口五貫目であるから二回目の鬮を引き終わった時点で「皆済」ということになる。ちなみに、一〇年目の最後の鬮(二〇回目)に当たった者は、現銀二貫五〇〇目と利銀二貫目の返済を受けることになる(「国作手永大庄屋日記」文政十三年閏三月二十七日の条)。
 もし余剰の金を所持している徳人が郡内にいればよいが、仲津郡筋奉行大村藤兵衛の言葉にもあったように、仲津郡は現在ある借財の返済も埒が明かない状態であったから、出資分二口の内、一口は郡で支出するにしても、あと一口分を出資してくれる者を探すのも大変だった。筋奉行から最初に名前の出た長井手永子供役長井健右衛門と節丸手永子供役節丸長左衛門にしても「健右衛門、長左衛門両人にて是非一口分五貫目の辻出来致さず候ては奉行所の存念も如何敷存候、しかしながら、去年以来御用銀等も差し出し、又はケ様の儀、強いて申すべきことにてもこれ無く候え共(略)六郡一統の儀にてこれ有り候間、何とぞ出精致し候様(略)」(「国作手永大庄屋日記」文政十三年四月七日の条の内、筋奉行大村藤兵衛より国作手永大庄屋森貞右衛門あて四月六日付書状)と、去年以来の「御用銀」(幕府への負担金。この場合は、恐らく鶴岡八幡宮の造営に要した御用銀のこと)を出させていることもあるし、それにこのようなことは、あまり強く言えないというのである。それでも六郡一統が行うことであるから、「出精」してくれるよう筋奉行は言っている。
 このようなことは、どの郡でも同じであった。企救郡では、調達講に四口加入するように沙汰(さた)があり、朽網治兵衛一口、城野甚之丞一口、楠原善六一口、郡辻一口(いずれも五貫目)で負担するように、とのことであった。しかし、この三人については、去年の春にも御用銀・御用借を頼んでいるので、名前を消した上、四口を二口に減らしてほしい、それでも当春に出資せよ、とは言いにくい、と大庄屋は筋奉行に申し出た。しかし、二口だけの加入は許されず、企救郡は三口加入することとなった。そのため二口は八月までに上納、一口は冬まで待ってもらうよう願い出たが、許されず、筋奉行より三口とも八月までに上納のこと、との沙汰があった(『中村平左衛門日記』第四巻三七七~三八七ページ)。
 結局、仲津郡の調達講掛銀は、一口五貫目は郡土蔵から借り、もう一口は五手永で一貫目ずつに割って負担することにした。他の四手永がどのように工面して出銀したか分からないが、国作手永の場合、大橋町新屋伴右衛門が二百五拾目、同町松屋太助が二百五拾目、同町亀屋十右衛門が二百五拾目、同町冨田屋吉九郎が六拾弐匁五分、同町柏屋勘七が六拾弐匁五分、同町丸屋茂三郎が六拾弐匁五分、同町松屋保治が六拾弐匁五分と、大橋町の商人に出銀させて工面している(「国作手永大庄屋日記」文政十三年七月二十四日の条)。
 出資する徳人を探すのに苦労をした調達講であったが、天保二年(一八三一)「調達講銀ニ付」として金子五〇〇疋、南鐐一斤が、郡方と徳人に対し、講の催し方で約束していた会釈料・酒料として渡されている「(国作手永大庄屋日記」天保二年七月二十八日の条)。その受取証文は、仲津郡の大庄屋五人および大橋村伴右衛門、真菰村清右衛門、上高屋村庄助の名前となっているが(同前史料二月一日の条)、これを仲津郡五手永に金一〇〇疋と代札八匁四分五厘ずつ割り渡していることが知られる(同前史料二月晦日の条)。
 調達講が、仕法どおり一〇年後まで維持されたかどうか、確認出来ていないが、定期的に鬮引きが行われていたことは、天保四年(一八三三)十一月二日付で、仲津郡筋奉行小出段蔵が国作手永大庄屋森貞右衛門にあてた書状の中で、仲津郡の「積銀講」(調達講のこと)の鬮番号が何番であるか問い合わせており、この年の三月・九月の当たり鬮の中に仲津郡は入ってないか調べたが、内役所の役人が日田へ出張しているので仲津郡の印が分からない、と述べていることからも確認出来る「国作手永大庄屋日記」天保四年十一月四日の条)。結局この年の仲津郡は三月の鬮引きで「四」印、九月に「十八」印の当たり鬮を引いて、三月の分として元銀二貫五〇〇目と利銀五〇〇目を、九月の分として元銀二貫五〇〇目と利銀六〇〇目を受け取っている(同前史料十二月五日の条)。