文政十一年(一八二八)夏に襲来した二度の大風は、農村に甚大な被害を及ぼし、同年の小倉藩の年貢減免高は二二四〇石にまでなった。小倉藩の農村の疲弊は、こういった単発的な自然災害にのみよるのではなく、農村人口の減少などにより、次第々々にその体質が弱くなったと考えられるが、疲弊が目に見えて顕著になったのは、文化・文政期からではないかと思われる。そういったところに文政十一年の大風であったから影響は深刻であった。
農村の荒廃などの事情を反映するかのように、藩札の相場は下がり続けた。藩札一匁の相場は文政初年(一八一八)に六〇文、文政十年(一八二七)五三文、同十一年(一八二八)四〇文、同十二年(一八二九)二八文六分、天保二年(一八三一)一八文、そして同三年(一八三二)には一五文にまで下落していった。
そこで、天保三年、藩が踏み切った施策は、大坂平野屋を銀主とした新札の発行であった(第86図参照)。一般に「平野札」と呼ばれるこの新札は、天保三年十一月から世上通用が始まり、交換相場は一匁が一〇〇文と告示された(永尾正剛「小倉藩の貨幣事情」北九州歴史博物館『研究紀要2』)。一つの可能性として、調達講で集められた資金が、平野屋札の両替準備金として使用されたことが考えられる。新しい藩札を発行するには、藩札が兌換紙幣である性格上、正銀と両替をするための準備金が必要である。平野札の場合、当然銀主である平野屋が準備しなければならないのである。調達講の目的は「諸向き御融通に御備え」ると言いながら、実は天保三年に発行する平野屋札の手筈を整えていたのかもしれない。
第86図 平野屋札