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奉公人の規制

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藩は農村の人手不足を受けて、その労働力の管理に相当敏感になっていた。それは、他所から農村内に入ってくる奉公人(入奉公人)、他所へ奉公に出る者(出奉公人)の管理について、藩側はもちろん大庄屋などの村役人が、注意深くなっていることから知ることが出来る。
 百姓が他国(他藩領)に奉公に出ることは、遅くとも文化二年(一八〇五)には禁止されていることが確認出来るが(『福岡県史資料』第四輯)、文政八年(一八二五)には「他所」へ奉公することを禁じ、奉公へ出る場合は庄屋へ届け出ることが義務づけられている。天保元年(一八三〇)三月と七月の二度の触れでも、村方の男女が市中へ奉公に出る場合、庄屋の元に届け出、庄屋に申し出ずに奉公に出た場合は、村方帳外(宗門人別帳から外すこと。いわば戸籍が無くなるのと同じような意味)にすると言っている(「国作手永大庄屋日記」天保元年三月八日、七月二十六日の条)。
 こういったことは、出奉公人を規制することで、農村の労働力流失を防止しようとしたものであるが、入奉公人を安定的に供給することも重要なことであった。天保二年(一八三一)七月、国作手永大庄屋森貞右衛門は、来年(天保三年)からは夏奉公人を「百日居」に決め、早く奉公に来た者は盆前でも一〇〇日になったら隙(ひま)を取るように、また遅く来た者は八月に入っても一〇〇日になっていないなら隙を取らせないことを指示している(「国作手永大庄屋日記」天保二年七月十一日の条)。盆を年季奉公の期限とする慣習(「五木の子守歌」を思い出して欲しい)にこだわらず、一〇〇日間の期間を設定し、労働力の安定供給を目指している。
 近世後期の農村奉公人は、数年に及ぶ年季奉公から、一年季奉公・短期間(数カ月)の奉公・日割り奉公に、その形態が変化する傾向があった。また給金についても、前借した金を働くことで返していく「質物奉公」から、労働力の対価として給金を取る「給取奉公」に変わってきた。