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離農の好機

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農民が奉公に出ることは、村役人にとっては、ただでさえ人手が不足しているだけに敏感にならざるを得なかったのであるが、農民にとっては決して楽とは言えない生活を抜け出す良い機会でもあった。一口に奉公と言っても、豪農の家に奉公する農家奉公のほかに、都市に出向いて武家や商家に奉公することもあった。特に後者の場合は、農民にそれまでとは違った生き方を与える可能性、つまり奉公する内に認められて、終身召し抱えられたり、運が良ければ商人などとして独立する可能性もあったのである。もちろん、支配する側にとっては農民が農業を離れることは簡単に許すわけにはいかないことである。例えば天保五年(一八三四)郡代山田平右衛門より郡奉行中に宛てられた触れには「農業をしっかりと営んでいる者が『身柄望(立身出世)』を志して生業を捨て、村を出て行くことは堅く禁じる。理由があって奉公に出たい者は、その訳を村役人に伺い出て、差し障りがないと認められる場合には奉公の年限を届け出ること。もし奉公先の主人より終身召し抱えられたり、見込まれて取り立てられたりする良い機会があったならば、そのことを届け出て指示を受けること。このことに背いたら、たとえ召し抱えられていたとしても引き戻して罰を申し付ける」(長井手永大庄屋日記天保五年二月二十六日の条)と、決して終身召し抱えられることを絶対的に否定はしていないものの、無条件に認めるわけにはいかないことを強調している。