農業を離れて別の生業で身を立てることを志す奉公に「暗さ」はないが、当時の小倉藩の農村で「奉公」と言えば、やはり食うや食わずの生活を、少しでも楽にするためのものが大部分であった。嘉永二年(一八四九)に国作手永大庄屋国作元左衛門が仲津郡奉行西正左衛門に宛てた演説書には、惣社村の農民の暮らしについて次のように書かれている。「惣社村は、仲津郡の中でも他に並ぶものが無い程の人手不足の村で(略)田畠は一五町二反五畝余りもあるが、百姓は全部で九人(戸主の数)しかおらず、しかも全員が苦しい生活を強いられている。一人平均七~八反をようやく耕作しており、少しでも余分の田畠が出来た場合には他村の者に耕作して貰(もら)っている。また年貢率が高い上に、麦を作る田畠が少しも無いので、作喰(農業の合間に食べる食料)が全く確保出来ず、日傭稼ぎをしなければ飢えに及んでしまう。そうなっては、農業が営めないので村役の者などが麦や米を借り入れて百姓に渡しているが、その年々の(借りた米や麦の)元利を返済し、またかれこれと年が進むにつれて借財が嵩(かさ)んでゆくため、根付料や牛代などを余分に借り入れてしまい、秋になって年貢の上納が差し支えると牛馬を売り払ってしまう。また、その牛馬も春に二両で買ったものを秋になって無理に売るため二歩か三歩でしか売れない。このようなことを毎年行うために大変な無駄が出て、女房・子供などを奉公に出し、百姓本人も『日分ケ奉公』に出るような有り様で大変困窮している(略)」(「国作手永大庄屋日記」嘉永二年四月二十三日の条)。このように国作手永大庄屋国作元左衛門は、人手不足を原因とする惣社村の窮乏を訴えた上で、藩庫より米二〇石ずつを嘉永二年(一八四九)から六年(一八五三)までの五年間給付してくれるように願い出ている。国作元左衛門の言う惣社村の窮乏は、人手不足を最初の原因として、作喰が確保出来ないために借財が嵩んでいること、借財が雪だるま式に増えていくこと、春に買った牛馬を秋に安く売り払ってしまうことなどを毎年繰り返すためとしている。米二〇石の給付を受けるために書かれた嘆願書であるから、多少大袈裟(おおげさ)に書いている部分もあるかもしれない。けれども、少なからず事実を反映していると考えるなら、女房・子供を奉公に出し、主人も短期的な日割りの奉公に出なければならない農民たちの生活に、とても「明るさ」を見出すことは出来ないのである。