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新百姓の仕据

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農村の人手不足に対する対策としては、新たな農民を移住させて無主地を耕作させると言った人的な対策が講じられた。こういった新たに移植した農民を「新百姓」と呼び、彼らを移住させ、耕作させることを「仕据(しすえ)」と言った。
 「走り者」と呼ばれ、居村を逃げ出し、新天地を求めてきた農民を新百姓として移植させ、荒れ地の開発に従事させることは、細川氏のころより見られたことである。また、享保飢饉後に田川郡の猪膝中村家の茂兵衛が、長州より農民数家を引き連れて新たに村を開いた例(田川郷土研究会『津野』)などもある。その他、新百姓には、多人数の家族を抱える百姓の子から独立できる者、他国から奉公に来ていた者が取り立てられたり、またいったん潰れた百姓を再び取り立てた例や、出奔した百姓が帰村して新百姓に取り立てられたりした例などがある(『田川市史』上巻)。また、既に被差別部落史研究の過程で明らかにされているように、特に近世後期には、被差別部落の人々が新百姓に取り立てられることが多かった。当時の記録には、そういった例の新百姓仕据の記事が多く見受けられる。
 新百姓の取り立てに必要な費用は新百姓仕据料として、藩から貸し付けられた。また、田川郡などでは、新百姓仕据料捻出のために無尽が組まれることがあったようである(『田川市史』上巻)。
 仕据料は、新百姓が農業を営むのに必要な費用に充てられた。寛政十三年(一八〇一、二月五日享和と改元)、長井手永大村の新百姓為助の仕据に必要な費用の見積もりがなされた。すなわち、家建作料戸代=藩札四〇〇目、牛代=同一〇〇目、牛飼料=同一五目、家財代=八〇目、種子籾八升代=同四〇目、そして作喰料=米二斗六升四合・大麦五斗二升八合・小麦九升である(『福岡県史』第三巻下冊)。ただ、この見積もりは寛政十三年になされたものであるが、実際に為助が新百姓として取り立てられたのは、かなり遅れ、文化五年(一八〇七)であった。