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はんの木

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藩方の役人にせよ、村方の役人にせよ、自らが管轄する農村の疲弊を漫然として見ていたわけではない。少しでも農村が豊かになる良策があれば、すべてではないにせよ実行に移した。仲津郡国作手永に広がっていた広大な原野ナンギョウバルを天保年間(一八三〇―四四)に開発し、田畠を開くとともに多くの商家を誘致したことも、農村の中に在郷町を開くことで、経済活動の活発化をねらったものとも考えられる(後述)。
 けれども、体質的に弱くなった農村を立て直す策を必死に模索しながらも、良策を見つけ出し得ないジレンマが当時の農村を覆っていた。
 嘉永年間(一八四八―五四)に行われた「はんの木」の植林も、そのような模索の一つである。
 嘉永二年(一八四九)四月、国作手永大庄屋国作元左衛門の元に、仲津郡奉行西正左衛門より次のような内容の書状が届いた。
 
  「はんの木」といって、江戸の田舎の田畑の間に多く植えられ、四、五年もすればかなり大きくなり、薪
  などにも成り、伐った跡にもすぐに葉が出てくる木がある。この木は、落葉しても田畑の肥料になるとの
  ことである。このように大変優れた樹木であり、仲津郡の辺りには植林に相応(ふさわ)しい場所があると
  いうことなので、この「はんの木」の苗を三〇〇本取り寄せるから、到着次第植えて欲しい。江戸の辺り
  では大変重宝しているものと見え、武州は勿論(もちろん)のこと、総州や房州、その他近国の田畑の間は、
  この「はんの木」ばかりと言うことである。また田畑に限らず山渓などでも良く育ち、湿地も好むとのこ
  とである。到着したら直ぐに馬ででも取りに来て、近辺に植林して欲しい。その他にも利点があるかもし
  れないが、先ずは薪が取れることが第一のものと思われる。そうなれば、山の無い津留や今井辺りなどで
  は特に良いから分けてやって欲しい。『農業全書』前編に「はんの木」という項があったかに思うが、不
  確かである。何かと効能がある樹木とは思うが。
                        (「国作手永大庄屋日記」嘉永二年四月二十六日の条)
 
 西正左衛門は、はんの木のことを、江戸に在府している塩見久右衛門という人物からの手紙で知ったようである(この人物の詳細は不明)。はんの木は、カバノキ科の落葉樹であるが、はんの木の特徴として西正左衛門は、生長の早いこと、薪材に適していること、葉が肥料になること、育つ場所を選ばないこと、をあげている。ただ、西自身も、はんの木についての知識はなく、ただ『農業全書』に載っていたような気がする、という程度であった。
 『農業全書』は、農学者宮崎安貞が元禄十年(一六九七)に刊行したもので、中国の農書『農政全書』の影響を受けつつ、安貞の体験や見聞をもとにして、農事・農法を著したものである。安貞の著した九巻に貝原益軒の著した付録一巻を合わせた全一〇巻で、当時全国に広く普及していた。
 その九巻「諸木之類」の中に、はんの木についての記述がある(第87図参照)。
 

第87図 はんの木
(『日本農書全集』 第13巻農山漁村文化協会より)

 
    榿(はりのき)    第十一
  榿又ははんの木とも云。二種あり。一種ハ葉ひろくして、榛に似たり。ともに田畠のあぜ畦にうへてよ
  し。枝茂りて物を妨バ枝を切べし。此木ハ実をうゆれば早く盛長し、三年にしてハ薪となると唐の書にも
  見えたり。甚民用に利あり。所によりて多くもうゆべし。(後略)
                            (農山漁村文化協会『日本農書全集』第十三巻)
 
 国作元左衛門は、この『農業全書』巻九「榿」の項を書き写して、西正左衛門に送っているようであるが、(「国作手永大庄屋日記」嘉永二年閏四月十七日の条)、はんの木三〇〇本が江戸から届くまで、この、地元では聞き馴れない名前の樹木について、調べがなされた。
 帆柱村の庄屋である永沼仁助が言うには、横瀬村から帆柱村までの間には「はさこ」という木があり、その木は櫟(くぬぎ)と同じような葉で、素人には両者の見分けがつかない、とのことであった。また、仁助は「はさこ」の効能について、田の肥料に良いこと、上方では「はさこ」を山にたくさん植え、蚕を放ち飼いにしていること、横瀬や伊良原辺りでは紺屋が苧(お)染めに「はさこ」の葉を用いること、上方では柏餅(かしわもち)を包むのに用い、江戸では餅を包むために葉だけを売っている、とのことであった。この永沼仁助の話は、仲津郡の大庄屋・子供役中が錦原に集まった際に、仁助を呼び出して行われたものであるが、はんの木とは、この「はさこ」のことではないか、ということになった。「はさこ」ならば長井谷(今川流域)にもあると、長井手永大庄屋が言ったが、はんの木が到着したら「はさこ」と比べてみることにした(同前史料閏四月二十日の条)。
 また、西正左衛門が調べたところによると、企救郡には「こなら」と呼ぶ木で、葉の形などが櫟と見分けがつかないものがあり、専ら薪に使っている。しかし、この木は櫟とは違っており、染め物に使っているかどうかは分からないが、鎌(かま)で切ると、切り口が紫色をしており、これは「はさこ」と同じものではないか、とのことであった。これに対して国作元左衛門は、「はさこ」はまさに「こなら」である、と回答している(同前史料閏四月二十四日の条)。
 はんの木の苗は、嘉永二年閏四月二十九日に小倉に到着した。苗で送れば痛むので、実を送るように手配することも考えたようであるが、結局苗で取り寄せたようである。苗は全部で二八〇本あり、かなり痛みもあったが、国作手永一八〇本、平嶋手永一〇〇本に分配した(同前史料閏五月二日、四日の条)。