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島村・河野ラインの成立

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嘉永六年(一八五三)にペリーが浦賀に来航したため、幕府をはじめ諸藩はこれから海防について本格的な対応に追われることになった。小倉藩も浦賀の警備を幕府から命じられた。藩財政は慢性的に逼迫していた状況にあった上に、これらの警固の軍事費が重くのしかかってきた。こうしたなかで、翌年(十一月二十七日に安政と改元)の一月、勝手方引受家老の小笠原内膳(嘉永六年二月就任)が罷免され、代わって島村志津摩が任命された。また、四月には郡代が二木弥右衛門から河野四郎に代わった。そして、早速倹約令が出され、嘉永三年以来の掛米が藩士(大庄屋も藩士扱いであったから含まれる)に申し渡された。そして、六郡には武備整備のため三〇〇〇両余の御用借が申し付けられた。