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安政期農村の現状

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藩は年貢収納をいかに維持していくか課題であって、年貢の増徴は望めない。むしろ天保年間(一八三〇―四四)以来の農村の再建を継続しつつ、農業経営を維持している本百姓を保護していかなければならなかった。当時の農村の状況について大庄屋たちは次のように藩に報告している。
 
  一、諸役目が多いため、本田をもつ百姓が我先に高を減らすので、村の田が多くなり、作向きは荒れて
    いる。
  一、村々の役目は、高一石に付五~六人、また竃にも五~八人も掛かっている。
  一、役目は一人前二升ずつの差し引きなので、秋の収納時の算用差し引き額が莫大である。
  一、(略)
  一、百姓経営の中以上の百姓は、新地・徳田を多く所持し、本田はあまり所有していない。あるいは、中
    田以下のもので地味のよいものを買い求めている。
  一、高持百姓は、百姓経営が中以下のものばかりで、勝手不如意に陥り、そのうえ、悪田や上々田・上田
   ばかり持たされている。
  一、難儀百姓に限って本田高を多く所持している。
  一、川土手の破損付近はほとんどが新地にもかかわらず、本田を所持している百姓にそこの普請をさせて
    いる。
  一、(下略)
                                (「長井手永大庄屋日記」嘉永六年)
 
 この史料は次のような農村状況にあることを記しているのである。諸役目(普請などの夫役や、手永・村入用などを差す)が多い→困窮百姓の増加→田畠の作荒れ、または潰れ百姓・欠落百姓になる。そして、さらに存続している百姓の経営を脅かす。まさに、江戸時代の農村の根幹である石高制が足かせになっているのである。こうして、百姓が減少し、年貢未進(未納)が出ているのである。このような中で「村の田」=村総作田→耕作者のいない田畠を村人が総出で耕作して年間納入に備えるのである。こういった状況のみならず、さらに以下のような風潮が生まれたのである。①所有高に掛かる役目料も少なく、かつ作徳の多い新田や中・下田の中の「徳田」の所有者が裕福になっている。または買い求める者が出現、②反対に本田高の多くを持って難儀百姓に陥ったり、または年貢や役目料の高い悪田や上々田・上田ばかりをもって勝手不如意に陥っている。
 つまり、江戸時代初頭に行われた検地の時とは生産性が違ってきたこと、負担の高い上々田が敬遠され、負担も低く作徳の多い田畠が好まれる風潮であることが分かる。負担費目の中で農民にとって大きかったのは、一時凌ぎの借金の返済である。この借金は、年貢の未納やそのほか藩からの御用借に充てたものなどであった。そのため、役目料を軽減すべきだと提言しているのである。
 また、反別麦を使い、借財によって村の立て直し(仕組)をしている村には何ヵ年の「倹約儀定」中との板書を庄屋役宅や村入口など随所に立てるように達しを出した(「長井手永大庄屋日記」嘉永六年十一月二日の条)。