嘉永七年(一八五四)四月、二木弥右衛門のあとに郡代になった河野四郎は各郡の大庄屋に倹約・農政の簡素化について諮問した。これに対して六郡の大庄屋の意見書は、おおよそ次の項目であった。①御鷹の餌取り方の中止、②宗門改めは五年ごととする、③定免の年は、御免極めは小倉でするなどであった。②の宗門改めについては、企救郡では一カ年でおよそ米にして一六〇~一七〇石、藩札にして四~五貫目の郡益が生じると見積もっていた。六郡大庄屋のねらいは、年貢の「地方取立」の要求である。この要求に対して、藩は真剣に検討し、蔵方の役人の出郷は中止されて、年貢収納の業務は筋奉行と代官のみで行うことにした。この結果、田川郡の大庄屋たちは、米にして六〇石ほどの夫柄夫米など諸入用費が二貫七〇〇目ほどの郡益になると計上した。この「地方取立」は、安政四年(一八五七)まで行われた(田川郡は同三年)。