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領国貨幣の統一

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嘉永六年(一八五三)に至り、国札以外の「分散札」、すなわち私札の通用が禁止された(以下、前掲「小倉藩の貨幣事情~藩札と私札~」を参照)。また、安政二年(一八五五)八月晦日に「達し」が出され、私札の引き替えは九月限りとされ、その後の通用が禁止された。この時期飴屋は藩に銀三〇〇貫目の貸し付けを行っていたので、私札引き替えの準備の都合などを理由に、引き替え期限の延期を願い出たが、聞き入れられなかった。私札通用の禁止命令が、当職(勝手方引受家老)の島村志津摩によってなされていたので郡代の力が及ばなかったのであろう。
 そこで各札元ともに、私札の引き替えを励行し、安政二年十月に新屋札は通用額八〇貫目の内七八貫七七六匁余を回収して切り捨てた。飴屋は、実に三五〇貫目の通用額にのぼっていたので、十月十八日までかかった。回収額は三四七貫三八七匁余で、残額は二貫六一二匁余であった。これも切断されたという。
 万屋の場合は、同年十一月に上毛郡友枝手永大庄屋角之助のもとに預けられた。こうして藩札のみの通用が図られた。