嘉永七年(一八五四、十一月二十七日安政と改元)十月、「当夏の御用借」という形で、先納金を命じた。翌安政二年にも同じく先納金と「江戸表大地震」についての献金を命じた。この献金を、頻繁に農民・町人に出金させ、特に富裕な大庄屋層や在町の豪商に依存する体制が続いている。新たな事態であるペリーの来航は嘉永六年(一八五三)六月三日のことであった。この知らせは、長井手永大庄屋文書には同月二十三日に出てくる。しかし、もっぱらの関心事は旱魃(かんばつ)にあって「郡中の者ども、勝手次第に参詣をして降雨祈願」をするように触れ出されている始末で、七月二日には長井手永では一〇二町七反余が「無水田」となり、五ヵ所の池には水が無かった。七月末には二二五町余に被害は拡大し、池は八カ所となった(前掲「長井手永大庄屋日記」)。
こうした中で九月二十六日、先に申し付けられた、江戸城西の丸の「御用金」が用捨された(前掲「長井手永大庄屋日記」九月二十六日の条)。
「当夏浦賀表え異国船渡来(中略)この度の御備え立て武器の不足が急に生じ、多くの入用があったので」掛米を実施することにした」(同前掲文書)。
また、幕府より異国船警備を命じられた。そのための献金の要請(長井手永大庄屋日記」嘉永六年十二月二十四日の条)によると、
元永手永の格式受給者は
稲童村庄屋城戸悦次郎・蓑嶋村小嶋庄屋中原吉右衛門(翌安政元年大庄屋格)・羽祢木村庄屋岡田伴三郎
(一代格式子供役)、稲童村城戸徳三郎・蓑嶋村川口庄屋磯邊源右衛門・同村大嶋中村文右衛門(一代子供
役格)、元永村庄屋陣山繁蔵・元永村長井庄屋陣山興左衛門・竹田村庄屋山田七郎右衛門・蓑嶋村大嶋庄
屋磯邊彦左衛門・金屋村福田仁右衛門(一代苗字構柱御免)
国作手永の格式受給者は
大橋村森昇右衛門(翌二年七月 一代大庄屋格)、飯埜伴右衛門(一代格式子供役)、柏木勘七(追々被仰
付)、森保蔵(一代子供役格)、上坂村庄屋野村弥左衛門・惣社村庄屋村田吉助(一代苗字御免)、大橋村菊
池保平(一代苗字脇指御免)、同村の古賀傳七・中原傳六・古賀嘉七(一代苗字御免)
長井手永の格式受給者は
古川村庄屋白石時助・大熊村高田興右衛門(一代格式子供役)、山鹿村玉置伴助・崎山村林平作(一代子供
役格)、同村林紋次郎・柳瀬村田中庄兵衛・續命院村岡崎藤七(一代苗字御免)
節丸手永の格式受給者は
木井馬場村藤河祐左衛門・帆柱村庄屋長沼村平(一代格式子供役)、横瀬村加久好平(一代子供役格)、横瀬
村宮原市左衛門・上原村和田半兵衛(一代苗字御免)
平島手永の格式受給者は
彦徳村緒方治右衛門・今井村庄屋吉武伴七(一代苗字御免)
以上であった。
また、倹約令も出された。これは嘉永七年四月のもので手代役の御免、同六月には検見定役・郡方吟味役などの人員を廃止することで経費の節減を図っている。