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藩債の整理

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このような従来からとられた方法だけではなく、積極的な財政政策と国産政策が推進された。国産政策は後述するとして、財政政策としては、大がかりな藩債の整理がなされた。この時点での藩の藩債の全容は把握できないが、「元豊津県財政ニ関スル書類」(九州大学九州文化史研究施設架蔵)から次のことがわかる。江戸の伏見屋庄兵衛に天明年間よりの借金一七五五両、大坂の商人たち(平野屋五兵衛ら)に文政十三年以降滞っている借銀一二〇貫目がある。また、当時支払い中の借金もあった(元金合計およそ二万五四五七両で、一〇〇~三〇年賦、最高額の債権者は三村清右衛門)。これら以外の上方の借銀、すなわち大坂の銀主への借銀一万九六一九貫余を安政元年(一八五四)より一ヵ年七八貫余の支払いで、京の銀主への借銀一一三一貫余りのものを同じく一ヵ年四貫余の支払いで、二五〇年賦にすることで話をつけている。この銀主には平野屋(高木)五兵衛をはじめ松屋・加嶋屋・大庭屋・高池・天王寺屋・天野屋などであった。
 また江戸商人に対する借銀整理も行った。そして、領外の借銀整理とともに、領内の借銀の整理も行った。天保九年(一八三八)十一年(一八四〇)の御用借金に対して、元金据え置き年三朱の利子を支払ってきていたが、この安政元年より、二五〇年賦にすることを御用借金を差し出した者へ通達した。これらは事実上の借金踏み倒しであった。そして、後述するように、国産政策を通じて今度は日田の御用達の千原家との関係を深めていくのである。