天保期の国産政策は藩札の下落のみならず、農民側の抵抗もあって国産会所を数回改廃を繰り返し、絶えず農民的商品生産・流通の成果を吸収しようと試みたが、結局うまくいかなかった。
嘉永四年(一八五一)、国産御用掛に郡代をはじめ、仲津・田川郡の筋奉行と大庄屋を中心に任命し、これに仲津郡大橋の柏木勘八郎を加えて、藩営の御用板場を経営する仕法をたてた(長井手永大庄屋文書一四)。
この仕法は、仲津郡大橋の豪商である柏木に藩営の御用板場を委ね、また田川郡にも御用板場が一カ所設けられて、大庄屋を中心に櫨実の仕入れがなされ、嘉永六年より生蠟生産が開始された。