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安政の国産仕法

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安政元年(一八五四)には嘉永の国産仕法の存続を中核として、小倉藩全域にわたる産物の流通統制を行ったものである。かなり長くなるが、その史料を示しておく(「長井手永大庄屋日記」嘉永七年)。
 
  一、領内諸産物並びに米穀は一切、最寄りの会所へ持ち出すこと。会所は小倉・行事(京都郡)・宇島(上
    毛郡)の三ヵ所に設置し、田川郡・築城郡はそれぞれ一ヵ所取次所を置く。
  一、米穀は会所買い入れ高の内二割を非常手当てとして郡々弁利宜所へ残し置き、豊凶を見定めた上で売
    り払うこと。
  一、振り手形之外、郡要用米・商用米とも他所売りの場合は是迄通り願書を差し出し、会所へ申し出て代
    銀の内「弐歩」益銀を納め、勝手売りをする事。尤も運上銀は石ニ付「三歩」極めのこと。
  一、生蠟為替の貸付値段の八割渡しとし、仕切り書到着の上清算、銭渡しのこと。
   但、生蠟御益銀として「金目一歩」を納めること。これは寅年(安政元年)の櫨実を生蠟に打ち立てた上
   でのこと。
  一、生蠟は大坂・下ノ関に問屋を立てて送るが、外問屋へ直売致したい者は引受問屋より掛け渡し、口銭
    銀半高宛にて仕切渡すこと。
  一、葛・卵・楮・苧其外諸産物を他所売り致したい者は会所へ届け出、仕切銀の内より「弐歩」益銀を納
    めること。
  一、会所にて買い切りの品は現荷物取り組みとし、代札は郡渡しとする事。
  一、櫨値段は十二月中旬極めとし、引き当て見合いの札を渡し置く。
  一、櫨実仲買札なくては櫨の買い集めは出来ない。櫨の抜け売りの禁止。
  一、会所懸かり諸産物の川口運上は、仕切銀の内より会所へ取り立てること。会所取り扱いでない品は是
    迄通り、出入り共、川口番所で運上を取り立てる。
  一、板場職の者で櫨実買い入れ資金の前借りを望む者へは、身元に応じ貸し渡す。
  一、諸産物積み出しを許された者は、会所証拠を所持し積み出すこと。
 
 このように、諸産物は会所を通して大坂もしくは下関の指定問屋に送るが、他所売りも願い出れば許可され、会所益銀として弐歩を納めればよかった。小倉藩は、流通段階を規制してそこより利潤を得ようとし、また生蠟為替の貸し付けを行って、清算を銭札でした。会所で買い上げの荷物の支払いも藩札でした。この仕法の掛の役人および、商人についての名前が記載されていないが、藩の元方・郡方役所の役人と次の商人を中心としたものであろうと推測される。堤平兵衛・柏木勘八郎・万屋助九郎の三商人である。それに、森貞右衛門・玉江彦右衛門などであろう。いずれの商人も、在郷の豪商である。堤は京都郡行事村に、柏木は仲津郡大橋村に、万屋は上毛郡宇島に拠点をもっていた。森貞右衛門は仲津郡国作手永の大庄屋である。玉江彦右衛門は、京都郡行事村の豪商「飴屋」のことである。
 この産物会所仕法は日田(現大分県日田市)の千原幸右衛門家の融資によって始まった。千原家は寛政五年(一七九三)に幕府の掛屋を拝命した日田の有数の豪商である(後述)。
 ところが、産物の集荷は悪く、村役の者にも周知徹底していなかった。また再三にわたって抜け売り禁止令が出された。さらに、仕法が大坂などで売り払い後に勘定清算がなされ、領内での代金の受取は藩札であったこと、従前の商取引が継続していたためでもあった。
 この政策の中心的な産物は生蠟と米穀であった。生蠟の清算にあたって収益をあげようとすれば、当然櫨実の値段に左右される。藩は大坂相場を参考にして買い取り値段を決めて仲買に購入させるように改善した。米穀は買米制度といい、天保四年(一八三三)の国産方でも積極的に行われており、その後もしばしば見受けられた。嘉永七年(安政元年=一八五四)には、江戸表異国船警固に関連して米の買い上げが命じられた。安政二年(一八五五)八月には、六郡で八二〇〇石の散米(農民の余剰米)の買い上げの指示が出た。翌年にも、散米四〇〇〇石の買い立てが出された。
 この国産政策は、一応成功した模様である。