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制産方

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制産方は産物会所の下部組織であったと思われる。嘉永七年(安政元年)甘藷の栽培を柏木勘八・堤平蔵に命じて京都郡・仲津郡の荒れ地・荒れ畑に植えさせている。安政二年八月には制産方仕入れの稲扱(こ)きを小倉八百屋町米屋仁右衛門に売り捌きを命じた(六角家文書「安政二より公私諸用録」)。安政四年に瓜侶根・宿砂・桔梗など一一種の薬草の栽培をすすめ、薬種の大坂登せを行った。売薬については、従来越中富山の薬種屋権七・肥前田代の井丸屋順平・摂州梶原村の辻本儀右衛門の三人に領内販売を許可していたが、これを禁止し、領内医師たちに製薬を命じ、風邪や風疹の流行の際には困窮者に対して施薬を行った。また、島村は米の品種改良にも関心を示し、遠国より新種を取り寄せてもいる。同五年には早稲の品種「占城稲」の試作が行われた。このようにこの制産方は、主として勧農政策・社会福祉的な政策を遂行する部署であった。
 以上のように、島村によって強引な財政政策がとられつつあったが、安政四年(一八五七)五月に島村が罷免されることで彼の主導による改革は終わったが、国産政策・日田の豪商千原との関係は継続されていった。