安政五年(一八五八)一月には、安政二年以来の不安定な米の収穫で年貢収納も思わしくないところから掛米が予定されていたが、どうにか実施せずに済んだ。こうした中で、安政の産物会所仕法は修正されて遂行された。
万延元年(一八六〇)、いままで問題であった櫨実値段の取り決めが入札制度に改められた。その修正点は、①他国の者が落札した場合は積み出しを許可する、②他国の者が落札した場合、定法通り益銀運上を産物会所に納入すること、③その他 であった。これは、従来の流通機構を認め、円滑化を図りながら、統制しようとしたものであった。そして、入札に際し、願い済高は仲津郡で五万斤(櫨持ち・板場よりそれぞれ二万五〇〇〇斤)ずつ持ち出す。入札によって値段の平均を出し、それを郡中全体の値段とした。領外の者は旅問屋を定めて、その問屋取次をもって入札させた。小倉より藩の役人が出張し、手代も立ち会った。京都・仲津郡は申し合わせて、続けて入札を行った。入札が極端に低い場合には拒否することが出来た。
米については、万延二年(一八六一、二月十九日文久と改元)に窮民救い方として米が売り出された。仲津郡では大庄屋五人と森貞右衛門に米一〇〇〇石を大橋・沓尾両蔵所に「直入」させ、「小売り米」が申しつけられた。一升につき一匁八分であったが、米価の下落で一匁六分売りした。そして、翌文久二年正月には、諸方からの米買いの者が来て抜け米が多くなったので、「抜け米」の取り締まりを厳重にするよう命じられた。また、販売の許可がおりた米については出来るだけ積み出しを留めるように仲津郡の大庄屋中には連絡した。しかし、同年の二月には販売予定の米についてはその二割を領内の小売り米として残しておけば販売してもよいという通達が郡方役所から出た。
文久三年(一八六三)十月、制産方の廃止が通達された。さらに、慶応元年(一八六五)には産物会所の廃止が通達されたが、生蠟については御元方のもとで田野浦の問屋幸作・栄左衛門・吉右衛門の三人が取り扱うようになった。十二月になって生蠟・葛・鶏卵の大坂に積み登す場合の規定が定められた。これは、荷主が大坂に積み登す場合には御元方の添え状を貰い受け、大坂蔵屋敷の中村平三郎の改めをうけ、希望の問屋へ売り払ったのち代金を蔵屋敷に納め、受取書をもって小倉に帰り、その上で御元方より代札(藩札)を受け取るというものであった。このようにして、藩が国産政策を繰り返して実施した理由は、大坂での藩財政の「銀繰り」(大坂での借金の調達)を円滑にすると同時に、藩札で産物を買い集め、大坂に送ることによって得た金銀を藩庫にいれる方法で正貨を獲得しようとしたのである。