万延元年(一八六〇)に万屋助九郎が二人扶持を頂戴した理由に、産物会所仕組に利益が上がったこと、日田表での御元方銀談が度々都合よくいったことがあげられている。
前述したように、千原家は寛政五年に幕府の掛屋を拝命したが、千原家が小倉藩・領民との関係をもちはじめたのは次のとおりである。藩に対しては文政十年(一八二七)に少額の貸金があった。次いで、小倉商人の蔵元彦六に天保期(一八三〇―四四)に少額の取引があった。農民に対しては天保十四年(一八四三)・弘化元年(一八四四)に上毛郡の者に各一〇〇両、嘉永元年(一八四八)に田川郡の者に一五両、同二年仲津郡内の者に一〇〇両の取引があったが、本格的になったのは嘉永五年(一八五二)に宇島の万屋との結びつくことによってである。嘉永五年(一八五二)に従来仲津藩領の小祝浦から船出していた大坂向けの日田の諸産物を小倉藩の宇島経由にし、万屋が扱うという契約が結ばれた。
そして、安政元年(一八五四)に小倉藩の「御用達」、翌年に分家の新田藩の「御用達」になった。同地には既に俵屋藤作という商人が小倉藩の御用達を務めていたが、千原家がそれに加わったことになる。これは小倉藩と幕府領の支配者である日田郡代の間で話がついての上と思われることから、慢性的な財政危機に苦しむ小倉藩にとって千原家の融資能力を当て込んだ政治的な背景でなされたものであった。つまり、ペリー来航以来の軍備の出費増、九州における譜代藩としての小倉藩の政治的立場を考えての上のことであった。こうして、幕末期の小倉藩の資金調達機関(前述の産物会所の銀主)および幕府の「公金」貸し付けの仲介者として重要な役割を担うのである。
小倉藩には嘉永元年に一〇〇〇両の貸し付けを開始し、以後次第に増加し御用達になった安政元年(一八五四)には四五〇〇両の貸し付けをしている。また産物会所の担当商人(前述の万屋・柏木・堤)あての貸金が嘉永六年(一八五三)以降にみられ、安政二年には小倉藩の貸し付けを上回り、安政四年(一八五七)には一万二六五〇両となり、同五・六年は一万四〇〇〇両台となった。そして万延元年(一八六〇)にはついに二万〇九〇〇両に達し、文久二年(一八六二)・同三年・元治元年(一八六四)は二万七〇〇〇両台におよぶのである。そして、産物会所に廃止された慶応元年(一八六五)には六〇〇〇両余の貸し付けに急減する。