千原はその外に、日田商人の常として数人の出資者を束ね、その藩の御用達が仲介者として貸金活動を行った。前述の万屋・柏木両人にたいして三〇〇両の貸金などを千原以外の商人が行っている。また、文久三年は小倉藩では御台場の増設・弾丸製造など長州征伐を控えての軍備増強がなされた年であった。そして、長州藩兵の田野浦占拠があった年である。この年小倉藩が依頼した調達金八〇〇〇両を豆田・隈両町(現日田市内)の者より出金した。追加分の二〇〇〇両は千原家が出金し、残りを他の商人が負担した。さらに、元治元年には長州征伐が行われたが、五〇〇〇両の貸金が行われた。このうち五三五両を千原家が負担し、残りは他の商人から出金が行われた。その後追加依頼された五〇〇〇両は日田およびその周辺の富裕層より出金した。
このように、小倉藩の幕末期の火急の財政補塡を担っていたのは日田の商人たち、とりわけ千原家の働きが大きかった。