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武芸・文学第一

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徳川幕府は、代々文教の興隆、学問の奨励に努めた。特に寛永七年(一六三〇)幕府は侍講林簇山に命じて江戸の忍ケ岡に学舎を開かせて朱子学(儒学)を講義させた。これが後の昌平黌(しょうへいこう)となり、やがて地方の大名たちもそれぞれの藩学、藩校を開いて家臣の子弟たちの教育を奨励するいとぐちとなった。
 小倉藩でも、細川藩時代は細川忠興の父藤孝(幽斎)は武人であるとともにすぐれた歌学の権威であり、二条家歌道の継承者でもあった。次の小笠原氏は源氏より受け継がれている三儀一統の道統を継承する宗家であった。享保十年(一七二五)十二月小笠原藩三代藩主忠基は条目を諭達し、「武芸文学第一トシ、疎略不可有之事、但文学ハ書ヲ読ムニカキラス、此儀可心得、其外芸術ハ好次第タリト雖モ、諸士ニ不似合ノ芸術ハ遠慮事」と示し、士道確立に文武の素養を重視した。学問の発達は、宝暦(一七五一―六四)前後ごろより儒学の発達を招き、ついで文化年間(一八〇四―一六)より国学、特に歌道の発達をもたらした。