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[思永斎]

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 元文四年(一七三九)藩主忠基は学問を尊重し、林信篤の教えをうけるとともに、京都より朱子学者石川麟洲(正恒)を招聘(しょうへい)し、禄一五〇石を給し、侍読とした。そして、更に同門の小倉藩士土屋昌英を侍読とし、豊前の儒学の振起をもたらした。宝暦二年(一七五二)十一月二十五日、藩主忠総が父忠基の遺領を継ぎ、文武の業を奨める条目を諭達し、「忠孝ノ道ヲ修メ文武之業ヲ務メ、風俗正シカルヘキ事」と示した。宝暦八年(一七五八)五月一日忠総は小倉城三の丸にあった石川麟洲邸内に学問所を設け、藩士に子弟の就学を命じ、そしてそこを思永斎と名付けた。この思永斎が、常設の教育機関の最初で、小倉藩校の起源となった。
 『福岡県立豊津高等学校七十年史』によれば「思永とは書経巻二『皐陶曰 都 慎厥身修思永 惇叙九族庶明励翼 邇可遠在茲』(皐陶曰く都慎みて厥(その)身修まり思ひ永く惇(あつ)く九族を叙すれば、庶明励翼す 邇(ちか)きより遠くすべしとは茲(ここ)に在り)よりとられ、君子たるものが万事その身を慎んでその思慮を永遠に及ぼし、ねんごろに九族に教え広めれば、人々皆その教を会得して自ら勉励し、君子の意を奉ずることとなる。近くよりして遠くに及ぼすというのはこのことであるというのであって、儒教の根本精神を意味するものである。宝暦八年、麟洲制定の講習書目を見ると、漢学中心の教育であって、朱子学によって武士としての教養を授け、ここに小規模ながら落ち着いた厳格な学風が生まれ、藩士の真剣な学問が始まった」とある。
 この思永斎において、小倉藩士の子弟は石川麟洲の教えをうけ、朱子学における道徳、学問による武士としての教養を授けられた。思永斎の教則によれば、講習書目は四書五経、左伝、史記、三国志、文章規範などの二〇に及ぶ漢籍によって学習が行われた。石川麟洲は、宝暦九年(一七五九)京都に帰省中に没した。二〇年にわたる麟洲の教育は藩学への基を築き、そして門下の増井勝之、嗣子石川彦岳(剛)に引き継がれ、小倉藩中枢の学風となった。麟洲の没後、忠総は宝暦九年十一月増井玄覧(勝之)に禄一〇〇石を与え、御書斎頭取を命じた。安永二年(一七七三)五月十五日玄覧に代わって石川麟洲の第二子彦岳(剛)が御書斎頭取に命ぜられた。
 その間、藩士の学問に対する意欲が高まり、従来の思永斎では手狭となり、また稽古(けいこ)所がそれぞれ別であることも不便であるため天明八年(一七八八)十二月思永斎を広めて武道場を併置し、名実共にととのった藩校が設立された。これが小倉藩の藩校思永館である。