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[思永館(小倉)]

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 天明九年(一七八九)一月二十二日、藩主忠総は小倉城三の丸に学館を建て、思永館とした。初代学頭には石川彦岳(剛)が命ぜられ、教則は思永斎当時のものをそのまま用いた。以下にその後の動きをまとめる。
 
 ・寛政三年(一七九一)小倉の文教がさかんになるにつれ、小笠原忠苗は江戸藩邸内に思永館出張所を設け、
  江戸に在勤する藩士子弟の教育機関として学問所を設けた。彦岳が出府して教授し、文武講習は思永館学
  則に準じて行われた。
 ・寛政六年(一七九四)教則の一部を変更し、習読書目を制定する。書目の中に王代一覧、本朝通鑑、日本書
  紀などの名が見えるのは、国史、国学の勃興(ぼっこう)を物語るものとして注目されるといわれている。
 ・寛政十二年(一八〇〇)慎文法、字試法を制定、さらに考集法を定めた。
 ・文化九年(一八一二)四月二十七日石川正蒙(彦岳の長子)に禄一一〇石を与え、馬廻格学頭を命じた。
 ・文政二年(一八一九)十二月十六日大池晋が学頭となった。
 ・文政十年(一八二七)十月三日川江贇が学頭となった。
 ・天保八年(一八三七)思永館焼失、次いで再建。忠固年譜に「天保八年正月四日夜戌ノ刻、小倉御城御居間
  ノ裏塩切場ト申所ヨリ出火、直チニ御看経所ヱ火移、御天守始メ、御住居向不残焼失」とあるので、この
  時思永館も焼失したものと思われる。翌月より城の再建工事を開始し、天保十年九月に再建されている。
 ・天保十一年(一八四〇)五月十九日矢嶋伊浜(焞辰)学頭となり、学風を刷新。
  矢嶋伊浜は江戸幕府の天保の改革に呼応して制度を改め文武の舎を増築し、課業の法を改良するなど大い
  に後進の指導に力を注いだ。もともと伊浜の傑出した資質、加えて謹厳な布施晦息を起用したため、当時
  の江戸文化爛熟に影響されて士気憂うべき悪風がただよっていたのを刷新するため課業の法が改良された。
 ・天保十四年(一八四三)七代忠徴は、条目を改めて掲示した。矢嶋伊浜は条目の義解を作ってその意義を明
  らかにした。すなわち思永館御条目義解である。さらに伊浜は条目に基づき学則(習業書目、習業科目、
  習業期限)を改定した。なおこのころから小笠原礼法が重視された。
 ・弘化二年(一八四五)五月館内に孔子の像を安置。幕府の湯島の聖堂に倣って孔子の像を安置して釈奠(せ
  きてん)を行い、小倉の文教は一層栄えていった。
  なお弘化年間、館内に医学講習所を設け、一ヵ月六回課業を実施した。また藩費遊学生一人を定めて長崎
  に派遣し、蘭学を修めさせている。
 ・嘉永二年(一八四九)八月布施晦息が伊浜の後を受けて学頭を命ぜられた。
 ・安政三年(一八五六)六月二十一日三宅義方が学頭となった。
 ・文久三年(一八六三)一月二十六日増井敬之が学頭となった。
 ・慶応元年(一八六五)五月一日近藤直寅が次いで学頭となった。
 ・慶応二年(一八六六)八月一日小倉城焼失、思永館閉鎖。
                      (思永館については『福岡県立豊津高等学校七十年史』参照)
 
 思永斎、思永館が開設以来、歴代藩主によって保護育成され、また石川麟洲の子孫、および門弟らが開設の趣旨をくみとり、先師の意を体して教育にあたったのでその隆昌にはみるべきものがあった。明治維新前の生徒概数は五〇〇人に余るほどであった。
 こうした小倉藩の藩学の隆昌も幕末の混乱により学校経営も困難となり、さらに藩の衰運と、小倉城焼失とともに小倉藩の移動により宝暦八年以来一一〇年の歴史をもつ藩校もついに閉鎖せざるをえなくなった。
 
(1) 思永館(小倉)の学制と構成
①教育目的小笠原忠総以来、歴代藩主の文武の業を奨(すす)める諭達と石川麟洲、増井玄覧によって培われた朱子学による士道確立と、幕府の示す武家諸法度を体することが目的であった。幕末まで先師の教えを受け継ぎ、基本的精神は変わらなかった。
②職員組織教官として学頭(学校頭替)・頭取助役(副頭取)がそれぞれ一人、助教七人(うち一人は江戸思永館出張所に輪番交代)、武芸師範(一流につき一人)・句読師(訓導師)六人程度が置かれ、そのほかに、助教に次ぐものに講釈加勢、また句読司籍句読師(司書に相当)習字師などがあった。監督官および事務職員は、学事担当家老一人、同用人一人、学習目付一人、物書(書記に担当)二人、備品の係に小買物役が定められた。合計、教員(文学、武芸)四十八人、事務員五人、給士三人、使丁四人(日本教育史資料)。
③生徒の入学資格 天保年間(一八三〇―四四)までは士分以上に限られ、その後、卒の上位にあるものは生徒控所で修学を許された。下卒の入学が許されたのは慶応年間(一八六五―六八)からで、それでも座席の上下の区別があった。卒は弓銃手共その担当の芸を師家に就いて修業し、あるいは隊長の指揮によって坐作進退などの法を習った。そのほか文武の芸術は私塾、寺子屋で修業した。年齢には特別の規定はないが、大体八、九歳から十二、三歳までの間に必ず入ることになっていたようである。
④生徒の概数 維新前では日計五〇〇人余といわれ、その内一八ないし二〇人をえらんで文学生員とし、武芸は一流につき三人の生員を選び、三年間特別の課業を命ずるとともに、師範の助勢をも兼ねさせた。
⑤束修謝儀 入学する場合の贈呈の礼物は、扇子箱一、生魚代として藩札壱文目を師家に、弘化二年(一八四五)聖像安置後は、聖像に献ずるならわしで、維新後は廃止された。
⑥学科 思永斎で石川麟洲のたてた教則、朱子学を中心にした習読学科を中心に踏襲し、さらに寛政六年(一七九四)石川彦岳が、天保十四年(一八四三)矢嶋焞辰が習業書目を定めたものがあるが、これも前の書目の一部を修正したにすぎず、ほとんど同じである。天保十四年に改められた思永館御条目は、この藩校の教育方針を知るのに最も的確な資料であるが、その第一には、文武の修業および忠孝の礼節を正すことを掲げ、漢学の学習においては、孝経および四書五経の素読、大意の理解を得ることが忠孝礼儀を知る基礎であると述べている。
 それに基づいて同年の矢嶋焞辰が立てた習業書目には、四書五経および孝経を基礎学習書として、その上に八五書が掲げられ、内容も儒学の根本精神の掌握から、古今の史実、政令、諸家語の研究、代表的文集の通覧など多彩にわたり、前に定められた書目より拡大されている。この当時が思永館の学科内容が最も充実した時期であった。
 武芸の修業は、開校以来必修の教科であって格別に重んぜられ、そのための設備、内容も充実していた。
 兵学は、山鹿、甲州、明石(海軍)、長沼の諸流を採用し、弓術(小笠原、印西、日置、竹林流)、馬術(小笠原流)、剣術(無眼、無天、今杖、新以心、二天、柳剛、一刀、真心影流)、槍術(宝蔵院、種田、佐武利流)、砲術(津田、若松、高島流)、柔術(揚心、制剛、眼心、一心、高眼、方円流)のほか、遊術も加えられており、各一流に師範、助勢として当務が置かれていた。そして上達に応じて目録、免許、印可などの等級を与えた。
⑦試験法寛政十二年(一八〇〇)に定められた方法によると、学問では五条についての塡文(てんぶん)を行う法(塡文法)二〇字についての字試法と考集法と称するものがあり、学校監督にあたる家老用人が立ち会いの上で行い、年末に優秀生に賞を与えていた。また、藩主が江戸より帰藩すると学校に臨み、自ら生員の試験を行うことがあり、さらに藩主は三年に一度、生徒大試験を執行して優秀な者に賞(書籍筆など)を与える慣(なら)わしであった。
⑧釈奠思永館の年中行事に釈奠があった。これは弘化二年(一八四五)五月に聖堂が設けられてより行なわれるようになったもので、慶応二年館が閉鎖されるまで続いた。香春移転後は、聖像拝礼の式を行うにとどまり、やがて育徳館にも継承された。



(2) 思永館の施設
敷地坪数  千八百五拾九坪三合
建物総坪数 三百三十七坪  (『日本教育史資料』、入江校長提出による)
 表御門を入り右側は柔術場、その次は剣術場、その次は兵学場。左側は槍術、長刀などの稽古場、その次も武道場で、その奥に藩主着座の場がある。以上の武芸所は、犬甘兵庫在職中の建築である。表御門の真正面に思永館(学問所)の明善門がある。この門の額「明善」の二字は石川正恒先生の筆であった。明善門の前の横筋通りを左に行くと、馬術の馬場があった。明善門を入ると、正面が学問所の玄関、それよりずっと学問所である。学問所の右に茶室という休憩所があり、夜学ではここが素読場となった。学問所の講堂は会読場であり、学問所の奥に孔子を祭った聖廟があった。左右に孔門十哲の画像があり、毎年正月十七日開業の時、生徒は皆礼拝した。表御門を入り、右に井戸があった。左の長屋に小使部屋があり、その次に賄役の長屋があった。茶室の脇に若党部屋があった(松井斌二著『龍吟成夢』上)。