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[香春思永館]

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 慶応二年(一八六六)長州戦争により苦戦した結果、八月一日小倉城を自焼し、香春へと撤退をよぎなくされた。そして香春藩が誕生したのである。そのため藩学小倉思永館もここで中絶した。慶応三年(一八六七)生駒九一郎を正使とする長州藩との講和となり、休戦会談も一月に妥結調印を終わり、同年三月香春に政庁を設立する運びとなった。当時の小笠原藩にとって、敗戦と人心の平静を取り戻し、武力の回復と、人心の安定のためには武を錬成し、学問の向上を図ることが復興への急務であると考え、藩校の復活に努めた。そこで武の錬成と文事を併習させる思永館の復活となったのである。
 慶応二年四月二十日、藩は不利な情勢にかかわらず教育の整備、特に武術に必要な稽古具の整備には力をそそぎ、学頭も従来の学者を避け、武人で文事に長じた当時郡方の喜田村脩蔵が登用された。
 慶応三年(一八六七)五月一日に香春思永館開業が触れ出された。教則や形は小倉思永館に準じたもので、香春の光願寺を文武所に取り立て、五月四日に開学した。
 しかし、慶応二年の撤退以来、小倉から避難してきた藩士たちが各地に散居していたため、その子弟の教育機関を一ヵ所に統合することは困難であった。そのため分散した教育機関をとらざるをえなくなった。すなわち支館が誕生したのである。
 次のような「香春思永館開業触れ出」が出されている。
 
  ・五月一日触出  此度思永館の形を以於香春光願寺文武所御取建、来る四日開業被仰出に付、同五日よ
   り出席可致執業候、其余左のケ所々々に於て文武所御取建相成候条相心得可申候、尤ケ所々々に於て発
   業は追て相達にて可有之候事
    但、光願寺に入学致度伺は学頭を以伺出可申事   卯五月
   支館割 本庄村信福寺、節丸村阿弥陀寺、別府村法蓮寺、上赤村照福寺、田原村蓮側寺
  ・五月四日触出  此度支館御取建に付、左の通両人宛箇所々々え引越被仰付候、右に付ては御時勢得と
   相弁万端申合、会読素読共別て出精可引立候。尤委細の義は頭取え承り候様可致旨助教句読師え申渡候
   支館箇所割 上赤村照福寺、田原村蓮側寺、大村瑞龍寺、木井村即伝寺、別府村法蓮寺
  ・七月十八日触出  先達相触置候於ケ処々々支館発業の義、来る廿二日より其ケ処住居の向罷出可致執
   行候、尤文学引立方、習書師共別紙の通被仰付候間、相心得可申事
   但、本庄村信福寺、節丸村阿弥陀寺、別府村法蓮寺え支館取建候旨相触置候処、差支の筋も有之に付、
   別紙の通り所替致し候事
  一、築城郡支館の義は、未だ出来不致候に付、追て相達にて可有之候事
   支館ケ処割 田川郡上赤村照福寺、同郡田原村蓮側寺、仲津郡大村瑞龍寺、同郡城井馬場村即伝寺
 
 (1) 本支館職員と教育内容(慶応三年発令)
香春思永館(光願寺)
 郡方学校兼務――喜田村脩蔵。助教――松室弥次兵衛、嶋田平太郎、下村虎之助(大村支館より)。
 句読師――丹村国彦(上赤支館より)、吉川種次郎、外山友之輔、内藤寛太郎、浦橋与四郎。
 習書師――安藤廉治。
上赤村支館(照福寺)  五月一日取建触出、七月廿二日発業
 助教句読師――山田謙次郎、丹村国彦(後本館へ)、鎌田英三郎。習書師――森島麻茂留。
田原村支館(蓮側寺)同前
 助教句読師――大輪熊太郎、風間郷左衛門。習書師――稲垣宗十郎。
大村支館(瑞龍寺)同前
 助教句読師――霧嶋八兵衛、下村虎之助(本館へ)、外山友之輔。習書師――香野専蔵。
木井村支館(即伝寺)五月取建、七月廿二日発業
 助教句読師――布施済右衛門、馬場久左衛門、木下文三郎。習書師――緒方丈左衛門。
本庄村支館(信福寺)
節丸村支館(阿弥陀寺)五月一日取建触出、七月十八日取建差支。
別府村支館(法蓮寺)
 助教句読師――嶋田平太郎、吉川種次郎。
弁城村支館 八月十九日取建触出 助教句読師――浦野順之丞、白河与一郎。習書師――塩湖僊。
安武村支館 取建触出六月か、差支発業に至らぬまゝと思われる。 習書師――内山与左衛門。
築城郡支館 取建触出月日不明、七月十八日未だ出来不致とある。
伝法寺支館 取建触出十月か。句読師――島田勝治、白石崎右衛門。
                          (以上小笠原文庫「慶応三卯年小倉追書」による)
 
 学問教育の程度は、儒学の精神を体得することによって士人の道を知るという思永館の教育目的に比すれば、はるかに低く、文字を知り、学問の一端に接し得るものに過ぎないようであった。特に、支館での教育は、本校よりも程度が低かったのではないかと思われる。
 武芸修業は、各支館の師範によって流儀を異にするが、剣術、槍術は必修の術で、本館、支館の試合などで士気を高め、その上達を競わせた。
 
 (2) 思永館の終焉(しゅうえん)
 香春思永館は、長州戦争による変動と、それによる藩財政窮乏、藩士の居住分散のため大規模な学舎は望めず、支館の設置という結果になった。しかし、藩の再興には、まず教育という理念をかかげ、藩政が教育に重点をおき、重臣挙げて藩校復興に奔走した熱意は敬意を払うべきところである。そして、このことが、その後の教育意欲を高める上で大きく貢献している。
 慶応四年(明治元年)十一月、仮御殿御造営についての場所を決定する投票を行い、錦原(現豊津)が一〇〇票中四八票を獲得して決定した。香春藩庁は、小倉藩変動後の仮庁舎であったので、ここに恒久的な御城地としての決定をみたわけである。直ちに家老小笠原内匠以下錦原御地所を見分、中央一〇〇間四面を縄張りし、御地所御祈禱、御鍬建を行った。そして藩庁と文武館用地の地均し作業が開始されたのである。
 文武館については、「文武学校ヲ豊津ニ新築シ、皇漢洋三学ヲ並用ヒ、旧習ヲ一新スルノ制ヲ施シ、生徒ヲ勉励スルノ法ヲ設ケ、以テ振起スルノ風ニ向ハシム」とし、これまでの思永館の館名も新たに育徳館とした。思永館の終焉である。