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塾教育の特色

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私塾は、武士階級だけを教育した藩学に対し、階級的差別なく、塾主の学徳を慕う向学の人に門が開かれ、塾主の信念による学風や、独自の教育精神によって樹立されたものが多く、藩政時代の民間教育機関であった。
 塾教育の特色として、三つの類型が考えられる。その一は、その国の藩校との関係が強いもの、その二は、逆に藩校と無関係に独自の立場を固守した塾、その三は、藩にことさら対抗するのでなく、全然無関係に、郷土および人間の育成に主眼をおき、名利をはなれての純粋な教育を目的とした塾である。
 豊前においては、上毛郡の小野原善言の塾が、その二にあたるのではないかと思われる。小野原善言は、日田から江戸および水戸にまで遊学して会沢正志斎に就き、この地方では珍しく水戸の学風を唱導した人であった。孝悌報恩の教えを布くことを以て天職とし、小倉藩校の教職を退いてからは、郷里八田村小野原山中において私塾を開いた。藩に忌避されながらも、その教育熱は強く、屈せず、明治元年(一八六八)、小笠原支藩の郷校が築城郡越路(こいじ)村に建てられてからその督学となり、翌年郷校廃止後、再び塾教育に尽くした。
 そして、その三の類型として豊前においては、村上仏山の水哉園、恒遠醒窓の蔵春園、および各地の日田咸宜園出身者が経営した塾の中にそのような傾向が認められる。