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[水哉園]

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 村上仏山は、京都郡上稗田村(現行橋市)の出身で、幼時は津積の定村直栄に学び、長じて筑前秋月の原古処、白圭父子に経史、詩文を学び、さらに吉田平陽、貫名海屋に学んで、その詩才をたたえられた。天保六年(一八三五)教育をめざし故郷稗田村に帰り、塾を開き、生涯を教育に尽くした。
 教育方針は、漢学の伝授と共に道徳の実践に重点をおき、自ら門弟に範を示した。その儒学的な教風は、仏山が原古処の影響を多く受け、その上、亀井門に寄寓したことなどの影響により、朱子学に説く主知主義的なものよりも、主意的、行為主義的なものが強かったようである。そのため実践的な人格の練磨を説き、心情の自然的な発露としての詩作の意味を鼓吹した。人を愛し、敬することの大切さを学問攻究に生かすように努めた。
 門人帳によれば、天保開塾以来明治十七年(一八八四)までの仏山および継嗣静窓への入門者は千三百有余名を数え、九州一円からさらに、中国、四国からの入学者がいたほど盛況であった。門下のうち俊秀として知られているのは、末松謙澄(名線松)、安広伴一郎などがあげられる。村上仏山、静窓父子二代五〇年間において豊津町関係入門生は第114表の通りである。
第114表 水哉園豊津町関係入門生『京都郡誌』
入門年住 所氏 名
天保七年仲津郡節丸進良吉
同  同末広万吉
同  豊津柴田勝三
同  光冨勢島定次郎
天保八年同  国分国分寺淳教
同  国分国分寺仁龍
同  惣社菊地周平
天保十一年同  国分国分寺義応
弘化四年同  国作加来九一郎
同  国作浄邦寺行教
嘉永元年同  国分内田秀之丞
安政六年同  節丸進源三郎
慶応元年同  国分国分寺英梁
同  国作加来彦蔵
明治元年同  節丸宮原勘治
明治五年同  豊津三井武彦
同  国作浄邦寺教恵
同  豊津荒木征雄
明治六年同  彦徳安藤彦九郎
同  彦徳安藤敬太郎
明治七年同  豊津久保田彦馬
同  同林国次郎
同  同松室茂
同  光冨勢島一
明治八年同  豊津青木為次郎
同  同松井辰三郎
明治十五年同  国分植村義寛
同  豊津春日寛治
明治十六年同  同芝尾喜多夜叉
同  同有賀淀彦