醒窓の学風は、広瀬淡窓の影響を深く受けたが、必ずしもそのままを継いだとはいえず、淡窓が朱子に拠りつつもそれだけになじまず、老荘からさらに仏教をも取り入れ、敬天を重んずる折衷的な立場をとったのに対し、それよりも朱子の比重が大であった。
教育方法としては、易経にいう屈伸感応の理を採用した。同塾の告諭で「易に屈伸の理を説けり、是学者第一可心得事也、故我塾には序席を設け、如何様発達の輩も最初は人の下に居、年月を入精候上者、上達を遂げ一塾の長と相任じ候様致申候」と示し、学ぶ者として当初屈することに耐え得ない者には、伸は求めがたいことを説いた。塾には学級組織を設け、一〇級に分け、さらに各級を上下に分けた。授業の上からは、一〇級を上中下の三組とし、九、八級を下会生、五級以上を上会生とし、十級は客席と称して年長の新入生、学力不明の新入生をもって組織した。下会は素読を中心にし、中会は四書、孝経、諸子の講義、上会は五経の講義を課し、その上、それぞれに特定の史書、文集の独見会(自習)を併課した。そして、これらの学科の平素の成績と試験により、毎月月旦と称して成績順に記したものを塾内に掲示した。これを月旦評というが、これらは日田の咸宜園の方法に倣ったものであり、同塾の特色ともいえるだろう。
門人帳によれば、学徒は九州はもちろん近江あたりからも集まり盛況であった。寮舎も拡張され、入門帳によると文政七年より明治十三年(一八八〇)まで七〇〇人に上る。しかし、実際には入門帳に二〇年分欠失している部分があるので少なくとも一千人以上の門人が入門したのではないだろうか。文久三年(一八六三)醒窓が没してからしばらくは門弟が塾を維持し元治元年(一八六四)から嗣子精斎(敬吉郎)が二三歳で継承した。精斎は、肥後の蒙斎に師事し、さらに京都西本願寺で学習した。学風は父醒窓、師蒙斎のあとをうけ、朱子学で易理を重んずる学風、教風は前代と変わらなかった。北豊の教育に貢献するところが大であった。
恒遠塾関係として醒窓、精斎父子二代六年間(入門帳二〇年間分欠失不詳)において京都・仲津郡関係の入門生は次のとおりである(第115表)。
第115表 恒遠塾京都・仲津郡関係入門生 |
入門年月日 | 住 所 | 氏 名 |
文政 九年 四月一四日 | 京都郡苅田 | 井上國治 |
同 | 同 | 林田岩治郎 |
同 | 同 | 井上仁會治 |
文政一一年 二月一九日 | 仲津郡竹田歴應寺 | 釈法州 |
天保 三年一〇月 二日 | 京都郡新津真念寺 | 勇哲 |
同 一一月 | 京都郡下稗田 | 水野幸三郎 |
天保 四年 二月一九日 | 仲津郡節丸 | 進龍之助 |
天保 五年 三月二六日 | 仲津郡木井 | 藤河三治 |
同 三月二二日 | 同 元永 | 西頭兵三郎 |
同 三月一二日 | 同 帆柱 | 永沼貞庵 |
弘化 三年 五月一二日 | 同 今井善徳寺 | 良中 |
弘化 四年 四月一〇日 | 同 柳瀬文台寺 | 厳浄 |
嘉永 二年 九月一八日 | 京都郡下崎則住寺 | 大円 |
元治 元年 九月 二日 | 同 苅田駅浄厳寺 | 法海 |
慶応 四年 四月一三日 | 仲津郡光冨 | 進要人 |
元治 二年 三月二五日 | 同 大橋旧縁寺 | 徳隣 |
慶応 元年一〇月 | 同 松原 | 竹中伝造 |
明治 二年 六月 | 同 上高屋 | 西盛太郎 |
明治一三年一〇月一〇日 | 同 木井馬場 | 池田丘緑 |
同 一一月 九日 | 同 彦徳 | 井村富太郎 |
同 一〇月 | 同 稲童 | 加来賢直 |
明治一三年 一月一九日 | 同 節丸 | 高橋元彦 |
同 | 京都郡鋤崎 | 藤ノ木桓 |
同 | 同 矢山 | 長曾我部元家 |
(『豊津町誌』より) |