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[蔵春園]

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 恒遠醒窓(頼母)は、上毛郡薬師寺(現豊前市)の医家の出身で、村上仏山の水哉園とともに北豊で名声の高い恒遠塾の初代塾主である。十七歳の時から豊後日田の広瀬淡窓(咸宜園)に学び、天来の学才が一層光をはなった篤学者であった。文政七年(一八二四)二二歳の時、故郷に塾を開き、自遠館と称し、仏山と同じく生涯を教育に尽くした。この自遠館が蔵春園の起源である。
 醒窓の学風は、広瀬淡窓の影響を深く受けたが、必ずしもそのままを継いだとはいえず、淡窓が朱子に拠りつつもそれだけになじまず、老荘からさらに仏教をも取り入れ、敬天を重んずる折衷的な立場をとったのに対し、それよりも朱子の比重が大であった。
 教育方法としては、易経にいう屈伸感応の理を採用した。同塾の告諭で「易に屈伸の理を説けり、是学者第一可心得事也、故我塾には序席を設け、如何様発達の輩も最初は人の下に居、年月を入精候上者、上達を遂げ一塾の長と相任じ候様致申候」と示し、学ぶ者として当初屈することに耐え得ない者には、伸は求めがたいことを説いた。塾には学級組織を設け、一〇級に分け、さらに各級を上下に分けた。授業の上からは、一〇級を上中下の三組とし、九、八級を下会生、五級以上を上会生とし、十級は客席と称して年長の新入生、学力不明の新入生をもって組織した。下会は素読を中心にし、中会は四書、孝経、諸子の講義、上会は五経の講義を課し、その上、それぞれに特定の史書、文集の独見会(自習)を併課した。そして、これらの学科の平素の成績と試験により、毎月月旦と称して成績順に記したものを塾内に掲示した。これを月旦評というが、これらは日田の咸宜園の方法に倣ったものであり、同塾の特色ともいえるだろう。
 門人帳によれば、学徒は九州はもちろん近江あたりからも集まり盛況であった。寮舎も拡張され、入門帳によると文政七年より明治十三年(一八八〇)まで七〇〇人に上る。しかし、実際には入門帳に二〇年分欠失している部分があるので少なくとも一千人以上の門人が入門したのではないだろうか。文久三年(一八六三)醒窓が没してからしばらくは門弟が塾を維持し元治元年(一八六四)から嗣子精斎(敬吉郎)が二三歳で継承した。精斎は、肥後の蒙斎に師事し、さらに京都西本願寺で学習した。学風は父醒窓、師蒙斎のあとをうけ、朱子学で易理を重んずる学風、教風は前代と変わらなかった。北豊の教育に貢献するところが大であった。
 恒遠塾関係として醒窓、精斎父子二代六年間(入門帳二〇年間分欠失不詳)において京都・仲津郡関係の入門生は次のとおりである(第115表)。
第115表 恒遠塾京都・仲津郡関係入門生
入門年月日住 所氏 名
文政 九年 四月一四日京都郡苅田井上國治
林田岩治郎
井上仁會治
文政一一年 二月一九日仲津郡竹田歴應寺釈法州
天保 三年一〇月 二日京都郡新津真念寺勇哲
同    一一月京都郡下稗田水野幸三郎
天保 四年 二月一九日仲津郡節丸進龍之助
天保 五年 三月二六日仲津郡木井藤河三治
同     三月二二日同  元永西頭兵三郎
同     三月一二日同  帆柱永沼貞庵
弘化 三年 五月一二日同  今井善徳寺良中
弘化 四年 四月一〇日同  柳瀬文台寺厳浄
嘉永 二年 九月一八日京都郡下崎則住寺大円
元治 元年 九月 二日同 苅田駅浄厳寺法海
慶応 四年 四月一三日仲津郡光冨進要人
元治 二年 三月二五日同  大橋旧縁寺徳隣
慶応 元年一〇月同  松原竹中伝造
明治 二年 六月同  上高屋西盛太郎
明治一三年一〇月一〇日同  木井馬場池田丘緑
同    一一月 九日同  彦徳井村富太郎
同    一〇月同  稲童加来賢直
明治一三年 一月一九日同  節丸高橋元彦
京都郡鋤崎藤ノ木桓
同  矢山長曾我部元家
(『豊津町誌』より)