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学ばせない政策から庶民教育奨励へ

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徳川時代の前半代までの庶民教育は、武士階級の政治的・経済的地位保持のため文字を学ばせない政策がとられ、武士を除いた大部分の人は日用生活に必要な知識について経験的に習得するほかはなかった。しかし、その後、太平の時代にともない国内経済の発達により経済生活の必要から庶民教育が必要となり、発達をもたらした。
 時勢の進展にともない八代将軍徳川吉宗は、享保(一七一六―三六)以後の経済難や財政難打開に必要な知識の注入とともに、子弟の非行化をふせぐ上からも庶民教育の必要性をさとり、室鳩巣に命じて「六諭衍義大意」を普及させ、寺子屋における訓育の基本を示し、その拡充発展を奨励した。ついで寛政年間(一七八九―一八〇一)には老中松平定信、天保年間(一八三〇―四四)には老中水野忠邦が庶民教育を奨励したので一層興隆していった。
 文部省が明治十六年(一八八三)より数年かけて全国的に調査し、収載した寺子屋関係記録は左記のとおりである(第116表)。
 
第116表 各年代の寺子屋数
年 代開業数年平均
開業数
文明―元和
(1469―1624)
17 0.1 
寛永―延宝
(1624―1681)
38 0.7 
天和―正徳
(1681―1716)
39 1.1 
享 保
(1716―1736)
17 0.9 
元文―寛保
(1736―1744)
16 2.0 
延享―寛延
(1744―1751)
14 2.0 
宝 暦
(1751―1764)
34 2.6 
明 和
(1764―1772)
30 3.8 
安 永
(1772―1781)
29 3.2 
天 明
(1781―1789)
101 12.6 
寛 政
(1789―1801)
165 13.8 
享 和
(1801―1804)
58 19.3 
文 化
(1804―1818)
387 27.4 
文 政
(1818―1830)
676 56.3 
天 保
(1830―1844)
1,984 141.7 
弘化―嘉永
(1844―1854)
2,398 239.8 
安政―慶応
(1854―1868)
4,293 306.6 
明治元―8年
(1868―1875)
1,035 129.4 
『日本教育史資料』によったため明治8年までであるが、
実際には同年以後に開業されている寺子屋も少なくない。

 
 庶民教育の施設として代表的なものが寺子屋である。鎌倉時代より学問の修業をする場所が寺院であったことから、次第に寺は学校の俗称となり、享保年間(一七一六―一七三六)ごろから寺子屋と人々が口にするようになった。そのためか生徒は寺子とよび、生徒が入学することを登山と言いならわされていた。
 寺子屋での教育は、読み書きだけを教えるものが多く、それに算数(珠算を主とする)を加えるものが次いでいる。寺子屋教育の特色は、密接な子弟関係からくる訓育にあった。しつけ、特に長幼の序、師走の礼譲、信義について厳しく訓育された。このことが当時の社会道徳を高揚する上に大きな力となったのである。
 寺子屋発生の動機をみると、庄屋など村政に参与するものが奉仕的に寺子屋を開き、教師を招いて子弟教育に尽くすもの、土地の篤志家が郷土に対する愛情から教師を雇ったり、またみずから教師となって寺子屋を開くもの、初め二、三の子供の教育を頼まれ、それが次第に拡大して寺子屋になったもの、寺の僧侶が布教教化として子供の教育にあたるため寺子屋を開いたもの、浪人などが生活維持のため寺子屋を開いたもの、そして「渡り者」と称する放浪者(浪人)を庄屋、豪農などが雇い、農繁期には農事の手伝いをさせ、ひまな時には近所の子供の学習を見させる不定期なものなどがあげられる。
 学習の方法は、同じ学力ぐらいの三~四人が教師の前に座って読みをうける個別教授や、年長者(兄弟子)が指導する互教法(友教法、友学び)が行われ、その後は各自読みを繰り返して暗誦するまでに至る読書百遍の方法がとられた。女子には裁縫が課されたりしたものがあり、その指導には師匠の夫人や娘があたった。
 学習の結果は月に一回小浚(こさらい)、年一回の大浚(おおさらい)、暗誦と読方、習字の試験などによって試されていた。
 寺子屋に入る子供の年齢は、八、九歳が最も多く、修業年間も一定しておらず、三、四年が普通であった。全課程を受けるものは、ごく少数であったといわれる。師匠に対する謝礼としては、別に定めはないが、入学する時は入門と称して束修(入門料)に酒肴をそえて贈り、毎月米一升、正月には鏡餅一重ね、五節句には時季のものを贈るのが常であった。また同門の子供たちには仲間入りとして菓子を配ることもあった。
 寺子屋の行事は、正月の書初め、七夕、席書のほかに、重要なものとして天神講があった(福岡県内は大宰府の関係で特に盛大に行われていた)。菅原道真の忌日二十五日には、文の神天神を寺子屋で祭るが、特に二月二十五日は各自が米や金品を持ちより、神前に供え、寺子一同が師匠とともに会食し、その時食事の礼儀作法、口上(挨拶)のしかたなどを教わるのが例であった。
 以上のように庶民の中に生まれ、庶民の力で育成された寺子屋の教育は、庶民にとって初等教育を行う私設の教育機関であった。そしてこの教育は、現代の初等教育の理念に合致するものであり、まさに日本における初等普通教育の先駆となるものであるといえる。