境内地に、二基の寺子屋師匠越厳、研高両僧の墓碑がある(第88図参照)。一基の墓碑右側に、文化四丁卯十一月十九日十方施主、正面に当時再中興越厳超座无品位、左側面の下位に児童中とある。そしてもう一基に「研高和尚・チコ中」と刻まれた墓碑がある。この二基の墓碑で、「児童中」「チコ中」が何を意味するのか明らかでないが、越厳、研高両僧が文化(一八〇四―一八)、文政(一八一六―三〇)中、この寺の住職をし、寺子屋師匠として子供に読み書きを教えていた。そして両僧の没後、住職の教え子たちや教え子の親が建立した供養塔ではないかと思われる(チコ中は、稚児中で児童中と同義に考えられ、住職が地域社会に大きく貢献し、教え子の尊敬を集めたことを示している)。
第88図 寺子屋師匠の墓碑
(豊津町田中、西楽山弘願寺)
(ロ)豊津町大字綾野字壱丁畑に宝積山普門寺がある。この寺は、正徳年間(一七一一―一六)ごろの小倉領寺院雑載に、御目見の寺院として藩主に謁見を許される寺僧としての格式を受けていた。そして金光明山国分寺の末寺でもある。綾野墓地に、この寺の住職であった宝永七年(一七一〇)正月二十四日阿闍梨(あじゃり)法運の遷化無縫塔と明治十五年(一八八二)四月十四日建立の普門寺孝宣の墓碑がある。この両墓碑下部の銘文に「門弟中」とあるのは庶民教育に貢献したことをうかがわせている。
(ハ)豊津町大字節丸字木戸に浄楽寺(浄土真宗)がある。本尊阿弥陀如来は、城井城主宇都宮大和守信房の作仏と伝えられている。慶安元年(一六四八)今井浄喜寺弟子水哉により寺が再建されている。資料は不明であるが、古老の伝えによると、江戸末期当時住職は近隣の子供たちにお経を教えていたようである。寺の布教教化の一端として子供たちにお経を教えることを通じて読み書き、訓育の教育をしていたのではないかと思われる。
以上藩学、私塾教育、そして庶民の教育(寺子屋)が、その後の教育に与えた影響は非常に大なるものがあるといえる。