これに加えて小笠原流では、行動を規定するものとして、〝美〟を基準としている。小笠原に伝わる礼法の和歌のうち
手も足も皆身につけて使うべし 離れれば人の目にや立ちなん
無躾(ぶしつけ)は目に立たぬかは躾とて 目に立つならばそれも無躾
とあるなど、また伝書中に頻繁に現われる「見憎く候」「見よく候」といった言葉も、「行動の美学」を基準とする考えなのである。このように小笠原流は、礼を行う心の坐りを究極に求める礼法であり、そこに美を見出すことに努めている。
さらに忠統は、『「小笠原流礼法入門」の現代に求められる礼法とは』で次のように述べている。「多様化する社会、価値観の変動はもちろん、生活様式の変化――これらに押し流されることなく対処し、旧来の作法やしきたりをただ安易に受け入れるのでなく、自分なりに咀嚼(そしゃく)することである。それはすなわち自分自身のライフスタイルをもつことであり、それに合わせた自分の判断による〝作法〟を作りあげることといえるだろう。現代礼法の基礎というべき小笠原流礼法が誕生してから約七〇〇年、この茫漠たる歳月を経た今日も、小笠原流礼法が人々の間に根強く生きつづけることは(誤解があるにしても)、私の喜びであるが、形や形式としてだけのみ取りあげられるのは大変な心外であった。(中略)現代の礼法はえてして〝形〟だけが広められ〝心〟が忘れられたままになっている。」
以上述べているように小笠原流の礼法は、思いやり、いたわり、つつしみ、そして美を求める、それらの心が本義であるといえる。そして、この礼儀の心は、作法の動作とともに、互いに補い合って礼儀作法になるものであろう。
そこで、小笠原家の歴史を顧みると、天文年間(一五三二―一五五五)、小笠原長時の時代に、武田信玄との戦いで小笠原は滅亡の危機に瀕する状態に直面したこともあった。けれども子息にあたる小笠原貞慶をはじめ歴代の当主の努力によって、これを切り抜けて生き抜き、さらに徳川幕府時代に入ると一転して、世の人々からは「弓馬の家」と称せられるほどの繁栄をみた。そしてさらに、明治維新に際しては、長州戦争、小倉城の自焼、香春への撤退、豊津への移転と全くめまぐるしい歴史の流れを経てきている。この厳しい歴史の流れの中で、小笠原流と小笠原家の人々がどのようなかかわりをもって変遷してきたのかを見極めてみることにする。
このたび、小笠原流宗家、小笠原忠統、小笠原清信の貴重な文献をいただくことにした。現代社会において礼法の大切さが見直されているとき、あらためて豊津と縁の深い小笠原流について一層の理解を深めたい。