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小笠原流の継承

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後世、源氏の一族として源氏の姓を名のらなくても、新田、足利、武田、小笠原氏など多くの武家が経基公を祖として出ている。この源氏の流れのなかで、貞純親王、経基公に始まる源家の糾方は、「糾方的伝」(弓馬の術・秘法)として伝承された。この糾方的伝は、源家の家法として代々にわたって適格者にのみ伝承されている。そしてこの糾方的伝の道統は、八幡太郎義家、新羅三郎義光、そして義光の二男義清、義清の孫遠光にと伝承された。義清の子清光には糾方不伝となっている。糾方不伝とは、家は相続しても家業の儀は、その道熟練熱心でなければ相続することを許さないという定めがあったためである。小笠原流が今日あるのは、この厳しい定めがあったからだと考えられる。
 遠光の兄にあたる光長(逸見氏の祖)と信義(武田氏の祖)が糾方を受けなかったのは双生児として生まれたためでもあったといわれている。遠光は、文治元年(一一八五)後鳥羽院の平家追討に功をたて、その功により信濃守に任ぜられた。そして遠光は、加賀美二郎遠光と称し、高倉天皇の承安四年(一一七四)正月、京都の紫宸殿(ししんでん)上に怪しい光があらわれた時、召しだされて弓矢の威徳でこれをはらった功により「王」の字の家紋を高倉天皇より賜った。
 遠光の長男光朝は秋山氏の祖となり、次男長清は小笠原氏の祖となり、そして三男光行は南部氏の祖となっている。源氏の糾方的伝は、小笠原氏の始祖となった長清に伝承され、これが後世の小笠原流と呼ばれることとなったのである。そして二十世紀の人々の礼儀作法の基盤にもなっていると言っても過言ではなかろう。(小笠原姓の起源は、遠光は加賀美二郎といっていたが、高倉天皇より元服したとき小笠原姓を賜ったといわれている。小笠原村に住していたためでもあろう。山梨県北巨摩郡小笠原村―現在は明野村―・山梨県中巨摩郡櫛形町小笠原)
 長清は、文治三年(一一八七)遠光より糾方的伝を受け、源頼朝の糾方師範となった。長清二六歳、頼朝四〇歳である。当時、小笠原氏は、現在の龍王(甲府の在)の近くの加賀美村、小笠原村に居を構えていた。
 そして加賀美村に住した加賀美二郎遠光によって、弓始、奉射・大的、百手(ももて)、笠懸、犬追物、流鏑馬(やぶさめ)などの儀式を武士の手で行うよう創定された。これらは宮中の儀式として故実により厳格に行われていたものを、新たに武家儀式として制定されたのである。また頼朝の命により、長清は「六芸の方」を制定、礼軍射御書作について編述している。長清を初代として現在まで糾方が小笠原流として連綿として伝承されている。長清は、仁治三年(一二四二)七月十五日、八一歳で死亡し、長清寺栄曾と号した。現在、山梨県北巨摩郡明野村(小笠原村)に長清の祠と菩提寺の長清寺がある。長清寺は、全国的に分布している小笠原家ごとに始祖の供養として建立されている。豊前小倉においても、現在、北九州市小倉北区足立にある広寿山福聚寺の横に長清寺が建立されている。
 

第89図 清和源氏系図および源氏兵法道統(○数字は道統を示す)