糾方的伝は、貞純親王、経基公より始まり源氏代々の家伝、道統として伝承されてきた。そしてこの道統が小笠原家の始祖長清を通じて小笠原家に伝承されてから小笠原流礼法となった。源氏時代の糾方的伝は、主として宮中の儀式として故実にのっとり厳格に行われていたものを、長清が将軍頼朝の糾方師範になったころより、こんどは武家の儀式として省略できるものは省略し、新しい時代考証のもとに、新しい武家儀式として制定している。鎌倉幕府時代の武家の諸儀式を制定したともいえる。その一例をあげれば、小笠原清信は『小笠原流』の著書で次のように述べている。
「現在おこなわれている草鹿(くさじし)(鹿を模した大的を射ること)なども頼朝が富士の狩場で鹿を射そ
こない、きげんを悪くしたときに、長清が草で鹿をつくり、射法の秘術を教えてから頼朝は射そこなうこ
とがなくなったと伝えられ、これが後の草鹿のおこりともされている。この草鹿の式は、その後射術、射
法、射行の稽古法でおもんじられ、そのこまかなルールは現代のスポーツでも参考にされるほど詳しい規
則であり、その判定のしかたも、ほとんど完璧といってよいくらいに整備されている。」(第91図参照)
第91図 草鹿の式