貞宗より三代後の長秀は、将軍家の命をうけ、今川氏、伊勢氏と「三儀一統」を撰した。以後、この「三儀一統」が武家礼法の古典とされ、現在の礼法の規範となり、後世小笠原といえば小笠原流礼法といわれる基盤となったものである。また、長秀は、「当家弓法集」や「弓馬百問答」を編み、これも家法とされ、一子相伝して今もなお小笠原家に伝承されている。
源氏より小笠原家へと伝承された糾方的伝は、一子相伝として他には伝えない、いわゆる「お止め流」であった。そのためこの伝承された礼法が行われたのは、朝廷、将軍家においてのみということになっていた。特に、徳川時代になると封建制度を維持するため儀式を大変複雑にし、模倣のできない様式に育てていたようである。その後、徳川八代将軍吉宗のとき、戦国の世を経て崩れてきた騎射・歩射の業を復古再興することを小笠原家に命じている。将軍目代として、百手(ももて)、大的(おおまと)、小的、振々、草鹿(くさじし)、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物などの儀式作法を再興し、この諸式を諸大名、旗本の士に伝えている。
こののち、将軍が誕生したり、将軍の病気平癒(へいゆ)の祈願には、たびたび神事流鏑馬を行っている面もある。
当時、庶民文化は、この武家作法にのっとった作法をとり入れ、すべて小笠原流と呼称して固有名詞のようになっていたが、本来の小笠原礼法を行うことは禁止されていた。そのため庶民にとって色々な変形で行われていた。そうなると世の要求に応じて、自称小笠原流の師範が輩出してきたようである。そのため小笠原家とは関係もない礼法専門家たちが町家の好みに応じて、ぜいたくで華美な小笠原流をつくりあげ、礼法を繁雑なものにしていった面があるとも言い伝えられている(要するに、糾方的伝、小笠原流は一子相伝で、お止め流であったため、将軍家以外ではむやみに行うことが出来なかったので、本当の小笠原流の真意を知る人は極めて少なかったのである)。
そこで、小笠原家にとって最も大切なものである糾方的伝とは、いったい何のことであろうか。