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小笠原礼法の整序

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小笠原家にとって重要な小笠原流礼法の書「小笠原礼書七冊」がある(第92図参照)。そこでまず、「小笠原礼書七冊」についての概略を述べる。
 

第92図 小笠原礼書七冊(復刻版)

 小笠原貞宗から三代後の長秀は、足利義満の命を受け、武家礼法の古典「三儀一統」を撰した。長秀からさらに七代後の長時の時代は、室町幕府が衰え、戦国時代になっていた。そして小笠原一門にも大きな変化が起こった。小笠原家の祖、加賀美二郎遠光の兄の信義は、武田太郎といって、のちの武田信玄などの甲州武田家の祖となっている。つまり、武田家と小笠原家は一族であるのに戦国時代になると、お互いに争い、特に長時の時代には武田晴信、信玄と数度にわたり戦っている。なかなか勝負が決らないまま続いたが、信州一帯が武田の勢力下になる結果になってしまった。小笠原家が敗れたのである。信玄から武田の旗下となればもとの信州を返すとすすめられたが、「武田は兄の家であり、小笠原は弟の家であるが、代々武田は国侍であり、これに対し小笠原は朝廷につかえ万事武田の上にいる。長時の代になって武田の旗下になることはしない」といって抗争を続け、評定の結果、長時は越後の上杉謙信のもとに赴くことになった。その後、京都の同族三好長慶、さらに奥州の同族葦名氏を頼って浪々転々し、ついには会津の地で、息子の貞慶が松本城を回復した通知を知りながら、家臣に殺されるという悲運の人であった。現在、福島県会津若松市東山町大字石山字稲荷山に長時の菩提寺である宝雲山大龍寺があり、長時と妻子が祀られている。
 その後、貞慶は、非常な苦労をして松本を回復した後、徳川家康の幕下になって古河の藩主(現在の茨城県古河市)となり、子の秀政とともに小笠原家を再興し、安定した時期を送った。そして「三儀一統」以来加えられた今川・伊勢両家に伝わる故実を組入れた小笠原流の礼法の整序に努めた。それが大成して秀政に伝授したのが天正二十年(一五九二)、小笠原礼書七冊である。
 「この本は、長時・貞慶の時代に、戦乱の巷で脈々と伝えられ、研究されてきた糾方的伝を集大成したものであり、室町幕府の武家礼式家としての小笠原氏の伝えた大綱を示しているものとみてよいであろう…。」と、長野短大の上条宏之は『小笠原氏の由来と礼書成立の背景』で述べている。
 昭和四十八年(一九七三)九月、三十二世宗家 小笠原忠統が次のように「小笠原礼書七冊」と解説書を刊行したので、その一部を引用して記述させていただくことにする。
 
 ・元服の次第(婿・嫁取之次第を含む)・万躾方之次第
 ・通之次第(同喰様之事)・酌之次第
 ・請取渡之次第・書礼法・上(書礼之次第)
 ・書礼法・下(書礼之次第)〝天正本〟の誕生と糾方の伝受

 
 
 このたび、〝小笠原礼書〟全七冊が復刻されることになった。その伝承と由来について、小笠原家に伝わる記録・諸史料・系図などを参考にして、概略をたどってみよう。
 ここに復刻された礼書の底本は、天正二十年に書かれた。小笠原総領家―豊前小倉小笠原藩には、長年にわたって、礼書ないし写本が数種伝来、保存されて現在にいたっているが、この底本は七冊の諸本のうち最古のものである。
 〝天正本〟の各冊には後書きに、次のように記されている。
 
 「この一冊、ねんごろにしるしおくものなり。
 天正廿年八月吉日                     右近大夫入道 沙弥宗得 花押
   信濃守殿                                          」
 
 すなわち、天正二十年八月、沙弥宗得(小笠原貞慶)より、その嫡男秀政に伝えられたものであることが明らかである。
 
  (注)小笠原貞慶=発祖長清より十八世、その父長時は武田信玄との戦さに敗れ、奥州に流寓した。貞慶は
   旧臣を募り、天正十年、信州松本城を攻略して本意を遂げた。その後、徳川家康に随い、古河城主に封
   ぜられ、入道して宗得と号した。
    秀政=幼時、貞慶の代に質子として、徳川家康の重臣石川数正に預けられたが、康昌が家康に背き、
   秀吉に走ったとき、伴われて秀吉についた。このとき、初名忠政を秀政に改めた。小田原の役の当時、
   秀吉の仲介で、家康の長男信康の娘をめとった。徳川治下に、古河・飯田の領主を経て、ついに祖先の
   旧領松本城主(八万石)となったが、大坂夏の陣で、その長子忠脩とともに戦死した。
 
 この本の伝授については、小笠原系図によれば、天正十四年(一五八六)八月の項に「糾方伝授」の記事として載せられている。いわく「(天正)十四年丙戌八月糾方的伝。師範父貞慶、及び小笠原出雲守頼貞。」
 糾とは正しいの意。的伝とは正しい伝授のこと、出雲守頼貞は、貞慶より四代前貞朝の弟貞政の三男で弓馬の達人。貞慶および秀政の家老を務めた。
 ところで、「天正十四年的伝」とあれば、礼書の奥書二十年と六年の差がある。だが、この時は時勢も忙しい時期、小笠原家も例外でなかった。天正十四年には、秀政は秀吉方、父貞慶は徳川方。両者分かれ分かれの立場の当時、秀政が隙(ひま)をみて松本を訪れ、糾方的伝が行われたのであろう。頼貞の名が記されていることは、頼貞が貞慶の父長時にも弓・馬を伝えた人であることからみて、このときには弓・馬の伝授が主だったと思われる。
 元来、小笠原家で糾方(法)というのは、「射(弓)・御(馬)・礼」の三者の総称である。したがって、天正十四年には礼法も一部は伝授されたにしても、弓・馬が主であり、礼法すなわち本〝礼書〟七冊を与えての伝授は奥書きのとおり天正二十年、秀政が貞慶とともに、徳川家康幕下として古河にあったときに行われたものとみてよいだろう(〝慶長本〟の後書に、「関東在国のみぎり、老父貞慶相伝のとおり…」とあるが、これからも、礼法の伝授は関東古河において行われたとうかがえる)。
 さて、本礼書七冊のうち、「万躾方之次第」は伝えられた〝天正本〟が欠けている。そこで、今回は、「万躾方之次第」のみ、慶長十三年(一六〇八)の写本の復刻がなされた。
 この慶長十三年の写本(以下〝慶長本〟)は、秀政より小笠原主水に伝えられたものである。主水は秀政の家老、秀政が妻の死を悲しみ入道したときも、共に出家するほどの親密な主従関係のあった老臣である。
 小笠原忠真(秀政の子。秀政と兄忠脩戦死の後、宗家を嗣ぐ)の事跡を記した「拾聚録」には、「故兵部様(秀政)の御時、二木勘右衛門、小笠原主水には、御直に御指南なされ候いて、馬書御借し写させなされ候」とあって、馬法を直伝していることが知られる。礼法についても〝慶長本〟(七冊)によってなされたと考えられる。
 内容について、〝慶長本〟と〝天正本〟の異同であるが、見られるように、〝慶長本〟は〝天正本〟に既に誤記されていたと思われる「勧修寺」など公家などの名もそのままの形で写されており、筆勢の異なりのほかは、〝天正本〟に極めて近いことが察せられる。
 〝慶長本〟に関して興味ぶかいことは、先ほども引いたが、七冊それぞれに同様に記されている裏書である。すなわち、「この一冊、先年関東在国のみぎり、老父貞慶相伝のとおり、正本をもって書き写しおわんぬ。先代には直子たりといえども、総領一人のほかは、かくのごとくねんごろに記し候本、これあるまじく候えども、別して懇意を加え候については、末代の形見となし、つぶさに記しおき候。いささかも他見あるまじきものなり」とあって、貞慶より秀政への伝書〝天正本〟の後書きが簡略なのに比べて、秘事を漏らさぬ戒めが付け加えられているのである。小笠原家が、鎌倉以来の「射・御・礼」の宗家としての伝統を固守するため、流儀の秘密を厳に嫡子相伝と定められていたことは、ほかにも種々伝えられている。
 しかし、嫡子相伝といっても、それは原則であって、父子の年齢が大きくひらいている場合、長時と貞慶のように父子が分かれている場合、秀政と忠脩のように父子が同時に討ち死にしてしまう場合のように、父―嫡子相伝のみでは伝授が断絶してしまう危険もあったようである。また、弓術・馬術のように、個人の素質に適・不適もあったであろう。そこで、前述のように貞慶―秀政の伝授に家臣小笠原頼貞が加わり、秀政から宿老小笠原主水に伝授するなどのことがあったと考えられる。また、前掲「拾聚録」には秀政―忠脩の伝授に関して、「故兵部先御代には、弓馬の儀、御総領信濃守様(忠脩)へ御直に御相伝なされ候。御一人に習いなされ、もし御失念のときの御ためとて、小笠原隼人佐を御相手に仰せつけられ候」とあるが、お相手に宿老なり、弓馬の達人などを参加させていたようである。
 この隼人は、お相手を申しつけられたとき、自分は馬のことはどうにか覚えられるが、弓のことは「無細工に候」と辞退し、小山吉左衛門をお相手に、と進言し、結局この両名がお相手をしたと、「拾聚録」に記されている。この二人は、秘事を漏らさないと誓詞を差し出して伝授を受けた。「隼人佐は、古来の風儀の確かなる侍に御座候。馬の乗方、大事の秘伝は、子ども、兄弟・甥にも相伝つかまつらず候儀、これ少しも偽りござなく候」(「拾聚録」)といって、一生涯その誓約を守ったわけである。
 嫡子以外の者で、伝授をうけた者は、そのことを自ら公表することもはばかられた。「故兵部様(秀政)御代には、弓馬のこと、つぶさに存じたる者ござなく候。たとえ存じたる者にても、存じたる沙汰を得いたさざる儀と承りおよび候」(「拾聚録」)ということであった。
 実際の伝授がどう行なわれたか。このようにひそかに厳しく行われただけあって、詳細は知る由もないが、小笠原家には、〝古老談〟が残されており、わずかにそのことがうかがえる。秀政―忠脩の伝授のことを立ち会いの小笠原隼人佐が語っているのである。「兵部様(秀政)より信濃様(忠脩)へ飯田にて弓馬御相伝のとき、われらばかり召出だされ、飯田の城『雁の間』という座敷に立籠りて御相伝なり。…(隼人は秀政が)御主なる故か思うようには問い申す儀もならず、あらましばかり承わりしなり。もっとも打切・桜狩(共に馬の秘術)は、よく御相伝を請け申したり。その後、主馬よりこそ残らず相伝したり御書物とも兵部様より御判なされ、下され候。」このように、正式の伝授の式の後に、細部は別の的伝を得た宿老から受け、その上で藩主から伝書に花押したものを請け取る場合もあったようである。
 また、隼人は長時―貞慶の伝授についていう。「常に休庵(頼貞)の兵部様(秀政)へ申されたり、長時より貞慶の躾け方(礼法)御稽古のときは、長袴の膝が抜け申したる物音申されたり」と。その厳しさをよく表しているといえよう。
 次の話は、〝古老談〟にも〝正統小笠原系〟にもあるので、当時は有名な挿話だったと思うが、そのあらましは、
 小笠原頼貞は、宗家貞朝の弟貞政の三男であった。あるとき、父の貞政が長子刑部に馬法を伝えることを知り、前夜から麦畠の中にひそみ、伝授の現場を盗見して秘法打切(貞宗のはじめた飛越の術)を見覚えた。その後、何かの折に、自分は「打切」を知っていると人に漏らしたのが、父貞政に聞こえた。不思議に思った貞政が、悍馬(かんば)に頼貞を乗せ、打切を命ずると見事にこなした。貞政は秘法が漏れたのを知り、刀を抜いて頼貞に切りかかった。それを止めたのが長男刑部。そこで今度は刑部が疑われたが、彼は自分ではないと誓文をたてて否定した。ここにいたって頼貞は一切を白状したところそれほど熱心ならということで、あらためて正式に相伝を許されたという物語である。
 このように、流儀の秘伝を正しく継受しようとの執心は、代々の当主に激しいものがあったとみることが数々の資料から推察できる。