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初代 小笠原長清

1270 ~ 1272 / 1391ページ
長清は、遠光の次男として応保二年(一一六二)甲州(巨摩郡小笠原の館)で生まれた。母は、鎌倉武将として名の高かった和田義盛の娘である。幼名を加賀美小二郎といったが、承安四年(一一七四)元服したとき高倉天皇より「小笠原」姓を賜った。当時、遠光、長清は現在の龍王(甲府の在)の近くの加賀美村、小笠原村に居を構えていたためであろう。このときから小笠原の姓が誕生した。長清が第一世である。
 長清が、治承三年(一一七九)父遠光より糾方的伝を受け、文治三年(一一八七)より源頼朝の糾方師範になってから、父遠光とともに弓始(ゆみはじめ)、奉射(ぶしゃ)、大的、小的、百手(ももて)、笠懸(かさかけ)、犬追物、流鏑馬(やぶさめ)などの儀式を武士の手で行われるように制定した。これまで宮中の儀式として故実に厳格になされていたものを、武家の儀式として新しい時代考証のもとに新しく制定したのである。また、頼朝の命によりて「六芸(りくげい)の方」として礼軍射御書作について編述し、射法として「草鹿(くさじし)の式」(鹿を模した的を射る射術、射法、射行の稽古法)を始めた。これらのものは、現在まで小笠原流として連綿として伝承されている。
 現在、全国に小笠原姓と名のるものが多く、全国に繁栄した多くの小笠原の分脈があげられている。この分布は信濃、甲斐を中心に武蔵・伊豆・三河・尾張・美濃・飛驒・大和・阿波・淡路・讃岐・土佐・石見・若狭・南部・津軽・安芸・備前・京都・小倉・唐津など、文献に記されるものを拾い出しても全国的に分布しており、また本名を小笠原として小笠原姓を名のらない分脈も多く、繁栄している一族といえよう。この一族がすべて始祖を小笠原長清とするということは、姓氏の継承からも珍しいことである。長清について『平治物語』、『源平盛衰記』、『東鑑』などに多く示され、承久の乱には、中仙(山)道の指導者であったと記されている。
 長清は、仁治三年(一二四二)七月十五日、八一歳で死亡し、長清寺栄曾と号した。現在の山梨県小笠原村に長清の祠がある。もとは長清寺があったようだが、今は廃寺となり、小さな墓碑がある。かすかに栄曾という字が見える。晩年、長清が栄曾と名のって過ごした土地と思われる。寺としては、長清寺といって信州飯田にあるが、全国的に分布している小笠原家ごとに、始祖の供養として長清寺を建立していると聞く。豊前小倉においても小倉小笠原家菩提寺である広寿山福聚寺の横に長清寺が建立されている。