ビューア該当ページ

二代 小笠原長経

1272 ~ 1272 / 1391ページ
長経は、建久二年(一一九一)源頼朝のもとで元服した。父長清と共に多くの戦いに従い、父の死後、阿波国守護職についたが、後に弟長房にゆだねた。そこで、この長房から四国の小笠原氏、三好氏が発生している。承元年間(一二〇七―一一)、長経は、源頼朝の糾方師範となり、六波羅探題の評定衆に任じられ、京都の政務をとった。正三位になり、昇殿を許されている。
 長経には、長忠(長男)と清経(次男)の二人の男子がおり、それぞれ別々に家をもった。長男の長忠家は、惣領家で、豊前小倉小笠原の祖となり、さらにその子孫からは、越前勝山(石川)、肥前唐津(佐賀)などの城主が分かれて出ている。次男の清経家は、伊豆国の守護職となり、赤沢伊豆守ともよばれた。現在の弓馬術礼法小笠原教場家元で、元明治大学教授小笠原清信の祖である。両家はともども鎌倉幕府に仕え、両家の間に養子をやりとりなどして、いつも両家一体となって行動してきたようである。
 長経のとき、甲斐国小笠原村から信濃国伊那郡松尾の館(現在の飯田)に住むようになった。宝治元年(一二四七)六九才で没。