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七代 小笠原貞宗

1273 ~ 1273 / 1391ページ
深志の城主、南北朝の戦乱期に一方の武将として功績をたて、足利尊氏の軍に従って京都にはいった。貞宗は、将軍足利尊氏の糾方師範となり、弓馬、礼法の道をひろめ、尊氏は小笠原の流儀を武家の定法と定めた。宮中にも出入りし、後醍醐天皇に流儀を講じ、天皇から小笠原の流儀を日本武士の定式にすべしという書きものを賜った。位も三位にのぼり、昇殿が許された。天皇は、特に貞宗に目をかけ、「王」の字を家紋にするようにとのお言葉を受けたが、王の字の形を「三階菱」にして家紋とした。建武二年(一三三五)には信濃国守護職になった。
 貞宗は、小笠原常興(赤沢伊豆守である小笠原清経の子孫)と極めて仲がよかった。この二人は、ともに弓馬術に優れ、ともに後醍醐天皇に仕えて調馬と射術の師範となり、鳴弦(めいげん)・矢叫などの秘術を伝えている。二人は、武家の定まった法式として昔からの和漢の記録を調べ、起居動静の式をはじめとして言語令、騎乗令など六四巻にまとめ「修身論」と名づけて天皇に献上したところ、家法とするようにと勅令を賜い、現在でも小笠原家に伝わる根本の書物となっている。二人は、「修身論」のほかに「体用論」をまとめた。この二冊は、まさに小笠原弓馬礼法の基本といってよいであろう。
 貞宗の墓は京都の建仁寺にある。寺は、信州飯田に開善寺として建てられ、現存し、文化財に指定されている。また開善寺は、豊前小倉にも移封で移され、小倉北区湯川に現存している。