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十代 小笠原長秀

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深志の城主、信濃国守護職。父長基には三人の男子(長男長将、次男長秀、三男土用犬丸のちの十一代政康)がいたが、次男の長秀が父のあとを受け継いだ。
 このころ、小笠原氏は、どのくらいの領地をもっていたか。長基の生存中、永徳三年(一三八三)領地を長秀に与える遺言状を書いているが、これによると、甲斐国では小笠原村をはじめとした五カ所、信濃国では伊賀良庄をはじめ一〇カ所、その他に讃岐、上総、陸奥、京都に各一カ所と全部で一九カ所となっている。一カ所の大きさは、だいたい徳川時代の村の規模程度と考えてよいようだ。すると、一九カ所でとれる米の量も、一万石を超すことはまずなかろうと思われる。一九カ所のうち長男の長将に二カ所、三男の土用犬丸に三カ所分けているから長秀の分は一四カ所になる。小笠原氏は、これだけの領地をもち、武田とともに甲斐・信濃で甲斐源氏直系として近隣の豪族(武将)たちの上に君臨していた。
 長秀は、父の長基とともに「三儀一統」一〇巻および現在まで小笠原家の家法となるものを著している。後世、小笠原といえば礼法といわれる基盤がこのころ出来上がったといわれる。応永十九年(一四一二)四十歳で没。
 現在、信州に伝わる「大塔物語」という物語があり、この中心人物に長秀が登場している。それによると
 
 「長秀は小笠原家が代々信濃国守護職であったことを幕府に申したてた。このため応永七年(一四〇〇)、幕府は長秀を守護職に任じた。長秀は、これを信濃国の豪族たちに披露、豪族たちは祝い馬、刀、米、金などを献じた。その後、長秀と豪族たちとの間に争いが起こり、村上源氏村上満信を中心にして応永七年九月、長秀に対して一揆を起こした。
 一揆(いっき)軍は四〇〇〇騎、長秀軍は八〇〇騎、それでもはじめは長秀側が勝ったが、多勢に無勢、ついに主力は大塔という古い砦に逃げこみ、長秀は一五〇騎ほどで塩崎城に逃れた。大塔の方は勇敢に戦ったが兵糧が尽き、全員が自害や討ち死にをした。一揆軍は、長秀のいる塩崎城に押しよせ、小笠原の命運尽きるかに見えたが、十月に大井光矩の仲裁で一揆軍と和睦した。このため、長秀は面目を失い、家督を弟の政康にゆずって出家し、国中が治まった。」
 
 という内容であるが、これは応永年間に多い戦記物の一つで、もちろん事実ではない。実際には応永七年はまだ父の長基が生きており、長秀が守護職になるなど考えられない。長秀には子供がなかったので、長基は応永十二年に長秀のあとは弟の政康が継ぐように遺言状を書いている。応永十九年(一四一二)に長秀が死亡し、この遺言状に基づいて政康が家督を継いでいる。